「事情は解りました」
言ったのは、光司だった。
ふっと不安げに顔を上げた明の頬をそっと暖かな手で撫でると、光司は二人の刑事に向き直り提案した。
「証言は俺がします。裁判になったら、出廷もします。けれど、デリケートな問題です。こちらにいる折原さんに対しての署への
出頭要請は遠慮してもらいたい」
光司の言葉に、立花は探るような視線を向けて来る。
「貴方が証言を?」
「はい。実際、折原さんが襲われているのを助けた事があります」
「…本当ですか」
「はい。センターへ通報し、被害届を出す予定でした」
光司の言葉に、迷いはない。本当にそうするつもりでいたのだから。
「失礼ですが、なぜしなかったのですか?」
今度は稲葉が身を乗り出して来た。若い分、感受性が強く考え方が柔軟なのだろう。どちらかといえば加害者の側に同情的な
ようだ。
「先ほども申しました。これはとてもデリケートな問題です。ヘタをすると障害者をサポートするはずの自立支援医療センターと
いう存在そのものにバッシングが起きてしまいます。すべての職員が被害者になりかねない。それに個人的に訴えるとなると
折原さんの証言が必要になります。
それを考えると慎重にならざるを得ませんでした」
「なるほど」
光司の言葉に納得したのか、稲葉はしきりに「うんうん」と頷いている。その様子に、自分もこんな頃があったのだと光司は喉の
奥で笑った。
「俺は、元々警察官でしたから」
「存じ上げております。署長からもくれぐれも失礼のないようにと言われましたから」
稲葉が突然ぴしっと背筋を伸ばした。こちらに来る前に光司の事も調べてあったのだろう。光司はあっさりと警察官を辞めて
しまったが、椎名の家柄は結構有名だ。名門、といった方がいい。
稲葉の態度に、立花が苦虫を噛み潰したような表情で光司を見た。
「俺は、今は小説家です」
急に居心地が悪くなって、光司は声を落として言った。父や兄の事に触れられるのは好きじゃない。しかし、立花にとっては
そうではないらしい。
「人も羨むキャリア警察官のご一家。お父上も兄上もキャリアで今は警視庁の上層部にいらっしゃる。失礼。これは何も皮肉
ではありません。しかし、こちらも立場があります。公務員ですから」
「…」
皮肉ではないと言いながら、かなりの嫌味と妬み、嫉みが入った立花の言葉に、光司の隣で沈黙を守っていた明はハッと顔を
上げた。
今まで考えた事もなかった。否、考える事を避けていたから聞いた事もない。けれど、光司にも
家族があるのだという事に今更気づかされて愕然としたのだ。
「失礼ついでに、こちらの折原さんとはどういったご関係で?」
立花の意味深な言葉に明はゴクリと喉を鳴らした。自分という存在が、光司の立場を悪くするような事になっては泣きたくても
泣けない。護られるばかりの自分が、更に光司の重荷となるなんて。
だが、光司は。
「大切な友人と言っておきます。俺は警察官でした。親族、またはそれに近しい関係者の証言は証拠としての意味を成さない。
例え真実であっても。そう教わりました」
つまりは、そういう関係だと遠巻きに認めてしまう。
元々明との事は、光司にとっては隠すような事ではない。人に知られても構わない。愛した相手が明だっただけの事なのだ。
けれど、今、留置所にいるであろう加害者にとって、二人の関係は人生を左右するほど大きな問題になってしまう。光司も明も、
迂闊な事は言えないし、言ってはならない。
「俺と折原さんの関係が、意図せず加害者となってしまった青年の罪を重くするような事があってはならない。
そうは思いませんか」
「…そう…ですね」
光司の、あまりにもきっぱりとした態度に刑事たちは一瞬沈黙した。流石に元警察官だけあって、潔く、その上で言葉の裏を
使ってくる。光司は若いが、小賢しいくらい刑事のやり方に精通しているのだ。
「立花さん。」
「はい」
「貴方は先ほど立場と言った。ならば今、貴方はどれほど加害者の立場になっていますか?」
意外な事を言われて立花は面食らう。
「加害者の立場?」
普通、被害者の立場だろ…その言葉を立花は飲み込んだ。真っ直ぐに見詰めて来る光司の瞳が痛々しく細められていたから。
「解ってませんね? 立花さん、今、この場で目隠しをして部屋の中を歩いてみるといい。加害者となってしまった青年は、一人で
歩いていたのでしょう? ならば、少なくとも盲目になってから数年は経っている。杖だけを頼りに一人で外を歩けるようになるには、
それだけの時間が必要なんです。だとしたら、センターで性的虐待を受けていたのは牧野の年齢からしても中学か高校生くらい
の頃でしょう。そんな少年が、突然病気で視力を奪われ、さらに信頼すべき人間から性的な虐待を受ける。それがどれほど心に
深い傷を作るか。貴方は解っていない。偏見は捨てるべきです」
「…」
「俺は今、後悔しています。牧野という男は、自分の立場を利用して折原さんのアパートを仕事先から聞き出している。あの時。
折原さんが襲われた時。不法侵入で刑事事件にしておけばよかった」
「…」
「青年が襲われたのは、折原さんのアパートの近くだ…」
その瞬間。
明の身体がぶるりと震えた。事件現場をこの瞬間まで知らなかったのだ。
では、牧野は自分のアパートへ来ていたのではないのか?
そこへ偶然、もうひとりの被害者が現れてしまったという事か?
だとしたら…加害者となってしまった青年は、自分の身代りになったという事ではないのか?
一気に血の気が引いてゆく。
震える唇が「光司くん…」と囁いた。まさか、の言葉が出て来ない。
「大丈夫だよ、明さん。大丈夫」
身体の震えがとまらない明の背を撫でながら、光司はゆっくりと刑事たちに頷いて見せる。
そうなのだ、と。
狙われたのはそもそも明だったのだ、と。
流石の立花も、これには言葉がない。牧野の目的が最初から明だったのだとしたら、事件は簡単に覆ってしまうではないか。
車が遠くに駐車してあった事も、偶然通り掛かって青年を見かけ追いかけたのだという牧野の証言も、すべてが真実味を無くし
てしまう。
確かに、事件現場の近くに明のアパートがある事は知っていたが、車はアパートから離れた場所にあったし、事件現場も多少
なりとアパートからは距離があった。だから、偶然青年を見かけて適当に駐車したという牧野の言葉を不審とも思わなかった。
だが、牧野が態々アパートから見えない場所に車を隠していたなら話は180度変わる。明は目が見えないのだ。アパートから
車を離し、人目に付かず明の部屋に入り込めば…密室の犯罪は、容易く隠し果せてしまうのだ。
性犯罪は、立証が難しい事件のひとつである。
「椎名さんの話を総合するに、そう、なのでしょうね…」
痛々しげに震える明を見つめながら、稲葉が言った。
酷く困惑した、重い声だった。



