八代直(ヤシロ ナオ)が経営するアースキャットクリニックは日本でも珍しい
猫専門の病院だ。
その所為か、八代の病院には遠くから何時間も掛けて来院する飼い主も
多く、月曜日が休診日となっている。
その日。
翌日を休診日に控えて、八代の病院は大忙しだった。受付を終了し、さて、
最後の患者……ならぬ患猫だ、と思った矢先、近所で事故に合った犬が
運び込まれて来たのだ。
猫専門とはいえ、八代も獣医の端くれだ。相手が動物である以上、余程の
事が無い限り急患を断る事はない。だからこの時も応急処置をし、移動が
可能な状態になると犬の入院施設がある動物病院に送り出し、一息吐い
た時には時刻はすでに診療時間を大幅に過ぎていた。
「「センセー、お疲れサマですっ!!」」
「ああ、二人共遅くまで御苦労さま。明日はゆっくり休んで。」
そんな会話で二人のサポート獣医をにこやかに送り出せば、疲れがどっと
押し寄せて来る。今年で34歳。ムリの利かない年齢ではないのだが。
「年かなぁ……年だよなぁ。」
ボソボソと情けない事を呟いて、むくんで重い脚を引き摺るように治療室を
見回れば、とことことドアの端から入って来る小さな塊。
この病院の名前にもなっている八代の愛猫アースだ。空腹に耐えかねたの
だろう。治療室までやってくるのは珍しい。
「ああ、アース。ごめんごめん。お腹空いたろう。待たせたね。」
足元に小さな体を擦りつけてくるアースを抱き上げながら、さて食事にしよう
か…と思った途端、まるでタイミングを計ったかのように突然受付の電話が
鳴り出した。
八代の性格からして無視はできない。
やれやれと受話器を持てば、アースが不服そうに拗ねた鳴き声を上げる。
が、次の瞬間、アースの拗ね声は甘えた声に変わった。
「あれ、椎名さん。どうしました?」
相手は人気小説家の椎名光司。アースの片思いの美猫・アンジェリーナの
飼い主である。八代が受話器を持ち上げた途端聴こえたアンジェの鳴き声
にアースが反応したのだ。ゲンキンな猫である。そんな愛猫の様子に眼を
細めながら、八代は椎名の向こうにもう一人の声を聞き取った。
「ああ、ウチはいいですよ。大丈夫ですか?」
何やら受話器の向こうが騒がしい。
椎名の恋人……と言っても男だが……は盲目だから、突然の外出にワタ
ワタしているのだろう。椎名が取材旅行に出掛ける時など、八代は時折
アンジェを預かっているのだ。
尤も、今日は取材旅行ではないらしい。
10分ほどで来るという椎名の言葉に受話器を置くと、八代は待合室で売って
いるキャットフードの一つを開け、アースに与えながら待つ事にした。
椎名との付き合いはもう三年になる。
血統書付の子猫を連れて椎名がこの病院にやって来た時、椎名は警官を
辞めたばかりだった。人も羨むキャリア組。その約束された未来をあっさりと
捨て、彼は小説家の道を選んだ。
当時、彼の書いた小説が賞をもらい、その賞金で買ったのがアンジェリーナ
だった。
「あの小説の主人公が、まさか折原さんだったなんて……。」
いつも椎名の左側に寄り添う盲目美人。と言っても、性格は実に男らしく、
時折パコンッ!!と椎名の頭を叩き説教している姿を見たりする。
椎名が尻に敷かれているのは誰の目にも一目瞭然なのだ。
尤も、椎名に言わせると、惚れた弱み、だそうだが。
暫くすると、病院のドアの前で慌ただしく車のドアが開いた。椎名が到着し
たようだ。こちらから出て行くと、丁度彼が助手席のドアを開けたところだっ
た。後部座席にトランクがひとつ放り込まれている。
「すみません、八代獣医(センセイ)」
「いえいえ、構いませんよ。しかし、突然どうしました?」
「明さんのお母さんが倒れたと連絡があって。」
「え…。」
見ると、助手席でアンジェを抱いたまま折原が固まっている。盲目の折原
がアンジェを精神安定剤代わりにしていると以前聞いた事があるが、相当
ショックを受けているのだろう。
「すみません、いつ戻れるか予定が立たない状態なんですが…。」
椎名が申し訳なさそうに言うと、八代はふるりと頭を横に振る。
「それは構いませんよ。兎に角、気を着けて。」
そっと折原の手からアンジェを受け取ると、折原が泣きそうな声で「お利口
にしててね」と愛猫の頭を撫で、次いで「獣医、お願いします」と震える声で
言った。触れた指先がヒンヤリと冷たくて、折原の動揺が透けて見えるよう
だった。
『なぁご…。』
車が去ったあと、アンジェが寂しげに鳴くのはいつもの事だ。
毛並みも栄養状態も頗(すこぶ)る良いのは、椎名と折原がアンジェを大事に
大事にしているからだろう。
「大丈夫。すぐに帰って来るよ。良い子にして待ってようね、アンジェ。」
別れ際、折原から渡されたベッド代わりのバスケットを持ち直すと、くんくん
と犬のようにアンジェの小さな頭に鼻を擦り付ける。神経質な猫だが、八代
が毛並みに顔を埋めても嫌がる事はない。思えば、アンジェとも三年の付き
合いなのだ。
「よしよし。」
寂しげなアンジェを優しく宥めながら、ドアを施錠し、待合室に戻ると待ちかね
たようにアースが走り寄って来た。その声に麗しの美猫が視線を落とすと、
行き成り腹を見せるアースである。
「お前…それって、服従の姿勢だろう……。」
愛猫の情けないのか切ないのか解らない態度に呆れながら、八代はガックリ
と肩を落とす。アースの片思いは知っているが、こればっかりは八代にもどう
する事も出来ない。
何しろ元捨て猫と血統書付だ。ましてあの折原の可愛がりようでは、可愛い
箱入り娘に近づく虫など害虫よけスプレーで一発撃退しかねない。
きっと、アースは片思いのまま、いずれ血統書付のムコを迎えるであろう美猫
を眺め見る事になるだろう。切ないが、それが現実というものだ。
「アース…。」
ごろごろと嬉しそうに喉を鳴らす愛猫に目尻を下げると、アンジェを抱いたまま
待合室の明かりを消した。
と、その時。
行き成りドアが激しい音を立てた。慌てたようにアースが治療室の方へと逃
げてゆく。腕にいたアンジェも何事かと身を強張らせ、八代は再び明かりを点
けた。
「…椎名さん…?」
激しくドアを叩く音を不審に思いながら、それでも椎名が戻って来たのかと思
い八代が鍵を開けると…。
「ひっ?!」
ドアの向こうから、血まみれの男が転がり込んで来た。



