二つ並んだケージの中で、すやすやと猫が眠っている。
躾の良い美猫はベッド代わりのバスケットの中で。
美猫に恋する元野良猫は、少しでも美猫の傍にいたいのか、並んだケージ
にぴっとりと身を擦り寄せて。
既に日付は月曜日となり、この家の主とて、いつもならば寝酒の酔いに任
せてベッドの中だ。

が、しかし。

「お…重い…。」
血に塗れたガーゼを取り替えるにも一苦労の男の重さに四苦八苦しなが
ら、八代は背筋に襲い掛かって来るこの夜二度目の微熱に耐えていた。
「樋山仁美(ヒヤマ ヒトミ)…か。」
腕の中の熱さに眩暈を起こしそうになりながら、八代は綺麗に筋肉のつい
た身体を裏返し、右肩から左脇腹に走る傷のガーゼを外す。
「縫うほど深くはないが…。」
傷が大きい。どうやら鋭いナイフを後ろから振り下ろされたようだ。体型や
筋肉の付き方から見て、運動神経の良さで命拾いしたのだろう。ピンと
張った瑞々しい皮膚に走る傷は痛々しいというよりはセクシーだ。
こんな事を思ってはいけないのだろうが…綺麗な男。それが八代の樋山
に対する印象だ。
勿論、顔は腫れ上がっているので美醜は解らない。あくまで全裸にした
肉体的な美醜の感想である。
「このシーツはダメだな。」
ガーゼを取り替えると再び樋山の身体を仰向けにし、今度は脇腹の傷に
取り掛かる。感染症を危惧して手術用の手袋をしているが、もう何度も
取り替えていた。当然、お気に入りのワインレッドのベッドシーツは所々
樋山の血で黒ずみ、床に視線を落とすと点々と血の滴りが残っている。
血は洗ってもなかなか落ちない。諦めるしかないだろう。

それにしても…。

手の平に伝わって来る肌の熱さに、八代の喉がゴクリと上下する。
樋山は痩せ型のクセに良質の筋肉量が多く、その分見た目より遥かに重
い。ここまで運ぶにも一苦労で、更に手当の為全裸にするにも苦労した。
特に血で身体に貼り付いてしまったボクサーパンツはハサミで切らなくて
はならず、八代にとっては目の毒以外の何物でもなかった。

八代は、完全なゲイだ。しかも受け。ネコなのだ。

事情があってもう何年も性的な事から離れてはいるが、均整のとれた筋肉
質の身体は八代の眼を奪うには充分過ぎるほど魅力的だ。
「…。」
失神するように深い眠りに落ちてしまった樋山の浅黒い肌に指先を滑らせ
て、ハッと我に返って真っ赤になる事数え切れず。怪我人だ、怪我人だぞ
と自分に言い聞かせ、それでも牡の部分に釘付けになる視線。
今は大人しくしているが、朝になって勃ち上がったら…。

喰らいたい…。
思う存分、しゃぶり尽くしたい…。

喉がゴクリと音を立て、舌先が世話しなく口内を動き回る。相手をその気
にさせる行為は嫌いじゃない。舌先で掬い上げ、喉の奥深くまで頬張って
締め付け…舐(ねぶ)って…吸い立てて…。
想像しただけで眩暈がする。全身が熱に襲われて、汗が噴き出して来る。
…が。
『にぃ〜。』
隣の部屋から聴こえたアースの鳴き声に、八代はハッと視線を跳ね上げ
た。
怪我人相手に何を考えて…。
否。それ以前に、もう不毛な世界からは卒業しただろう?
「アース…。」
ぽつりと愛猫の名を呼んで、八代はやっと自分の欲望から解放された。

もう、やめたのだ。
誰かを愛したり、愛されたり。
散々泣いて、それでも孤独に耐え切れず他人の熱を求め続け。
裏切られ…騙されて…。
それは、八代にとっては忘れたい過去の汚点だ。

そっとアースの様子を見ると、どうやらさっきの鳴き声は寝言だったようだ。
少しでもアンジェリーナの傍にいたくてケージの隅に蹲る様は、まるでかつ
ての自分のようだと八代は唇を噛み締める。
それでも「ありがとう」と幸せそうに眠るアースに向かって呟くと、八代は再
び樋山の手当を始めた。


数時間前。
椎名と入れ替わりに飛び込んできた招かれざる客は、暴力対策課の刑事
だと名乗り、血に染まった紅玉の瞳で八代を見下ろした。
激しく殴り合ったのか、切れた額からは血が溢れ、裂けた衣服の下の皮膚
には刃物傷と解る真っ赤な筋が何本も走っている。
兎に角、警察手帳----今はアメリカ同様バッジケースなのだが----を確認
した後、電話の子機を手渡した。
しかし。
「悪ぃ…数字…押せねぇ。」
受付カウンターに寄り掛かり、ゼィゼィ肩で息をしているような状態の樋山だ。
赤く染まった眼がその機能を果たしているのかすら怪しい。
結局、八代が電話を掛け樋山に話をさせると彼の直接の上司だという片岡
にクリニックの住所を教えた。
電話の向こうでは罵声と怒号が飛び交い、その修羅場加減を八代に伝えて
来る。土曜の早朝から暴力団事務所の一斉摘発が行われていたのだ。
これほど大掛かりな広域指定暴力団の一斉摘発は十年に一度あるかない
かだろう。当然、この男にとっても二日間は修羅場だったに違いない。
何より、こういった摘発は当日だけが大変な訳ではない。実は、摘発までの
時間の方が恐ろしく長いのだ。
下調べから、証拠集め、踏み込みの手筈。その他、諸々。
多分、樋山をはじめとする一斉摘発に関わった刑事たちは不眠不休が続い
ていたはずだ。
案の定、樋山は電話が終わるとあっけなく意識を手放した。
怪我云々ではなく、多分寝不足なのだろう。八代は樋山の腕を自分の肩に
回して立たせると「とにかく歩けっ!!」と耳元で怒鳴り、エレベーターで二階の
寝室まで運んだのだ。

それから間もなく、片岡と入江と名乗る刑事がやって来た。
随分と疲れている様子の二人にコーヒーを出し、樋山は取り敢えず翌日が
クリニックの休診日である事を話して樋山を預かった。
片岡の話では、樋山には家族がなく、家に戻っても看病してくれる人間が
いないのだという。
この時はまだ簡単な手当しか出来ていなかったが、それでも一人にして
おくには危険だと判断出来るくらいには酷い怪我だった。
乗りかかった船…自分が預かるしかないだろう。
八代の判断は早く、二人の刑事は驚いたようだったが有り難く八代の言葉
に甘える事で収まった。

「それでは、お世話になります。」
「いえ。一応獣医とはいえ医師ですから、怪我人の手当くらいは出来ます。
ご心配なく。」

樋山の上司である片岡と入江が深々と頭を下げ帰って行くのを玄関先で
見送りながら、ふと、八代の視線が捉えた入江の左手に薬指はなかった。
心臓に近い指…事故だろうか。
八代の視線に気づいたのか、肩越しに振り向いた入江がさり気無く左手
を握り締める。

深淵の、深い深い底なしの闇を閉じ込めた氷河のような入江の瞳が妙に
八代の心をざわつかせる。
もしかしたら、入江と自分は心核(しんかく)がよく似ているのかもしれない。

眼に見える傷より、眼に見えぬ瑕(キズ)の方が厄介だ。
まるで八代の心を見透かしたような入江の瞳が、かつて自分を愛してくれ
た男の瞳と重なった気がして。
八代は思わず入江の瞳に魅入っていた…。