久我山昔話





  
高二小学校の電灯
明治 34 年(1901)に開校した草ぶき屋根の3教室の校舎が大正 10 年(1921)に改築されたんだ。改築中は、秦滝蔵さんの蚕(かいこ)小 屋を仮校舎にしたんだって。 1年と 2年が同室で、先生は半分ずつ 分けて教えていた。この改築により、村の青年たちが農閑期に、夜 学教室で使っていたランプを電灯にしたんだ。96 年も前の話なん じゃ。 (秦暢三さん 明治 42 年生(1909)の回想緑より)(平成29 年 7月 101)


関東大震災
大正 12(1923)年 9月 1日の関東大震災時、久我山には、約100 軒の家があった。揺れが強く、茶畑や竹林へ逃げ、家の中には居ら れなかった。〔相模湾北西沖80k マグニチュード7.9〕風呂の湯が 飛び出し、 三分の一しか残ってなかったんだ。つぶれた家は、無か った。
久我山には、現在、約1万世帯が住んでます。 今は、建物の倒壊よ り火災発生が怖いです。
火を消せ!!!!!!! 火を消せ!!!!!!! 火を消せ!!!!!!!(平成26 年9月 67)


品川の汽笛
大正の末ころ、荻窪に住んでいた長谷川弥次郎さん〔平成 8年7月 7日歿 89 歳〕は、ボォーッ・ボォーッと品川の汽船の汽笛を聞い たんだって。弥次郎さんは、 鳶職だったが、天沼共同墓地の管理人もしておった。筆者は石屋なので、この話を墓地で聞いたんだ。 〔井伏鱒二の荻窪風土記の書き出しにもこの話が書かれていま す〕 (平成 28 年10月 92)






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