久我山昔話





    
久我山 5丁目の字(あざ)は

現在の久我山5丁目は、昔は久我山一丁目だった。
「久我山」は大字(おおあざ)で久我山5丁目の小字(こあざ)は、 鍛冶屋敷・東ノ原・下ノ原があった。
昔の二・三丁目には、宮下・向ノ原・三屋・掘向・北ノ原・西ノ原・中屋敷などの小字があった。(平成24 年1月 36)


道しば
久我山5丁目[旧一丁目]に22 軒しか家が無かったころの話じゃ。
たぶち通りは、巾2m位で荷車がやっと通る程じゃった。 荷車の轍 が2本・中央に人の道が1本の道筋があった。
丈夫な道しば(草)が長く延び、その先を結ぶと輪ができ、人が足 を入れるとよく転んだもんだ。だから、 子供たちはアッと言って手 を前に出し転び方が上手になったもんだ。(故小作福寿さん、昭和 53 年9月27 日談より)(平成 24 年8月 43)


馬の骨
昭和末期の頃に下水道の工事を進めてました。久我山小通りの現 久我山東原公園角を、掘っていたところ土葬の骨が出てきたんだ。
工事中止!!🚓パトカー🚓来て、大騒ぎ。
居合わせた自治会長が、歯並びを見て、これは馬の骨だーーと 一 件落着したんだ。
昭和初期迄の自動車の無かった頃の牛馬は、久我山では役に立っ たんだ。(平成 31 年2月 120)





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