都立王子工業高校は、今住んでいる所から通勤したので、住居とお金の使い方を面白いから少し書いておこう。
 
上京直後は春日町の近くの戸崎町(現在は無い、春日町と合併された)だったことは述べたが、その後茗荷谷に引っ越して、ここから電大に通い、就職した帝京高校に通勤した。で、府中工業高校に異動する際に、武蔵小金井に一軒の家を借りて住んだ。部屋は5部屋もあり、8畳くらいのダイニングキッチン。よくこんな大きな家を借りて家賃を払えたナ、と思うだろうが、それは近所で兄が東芝ストアを経営していたので、その商品の倉庫として玄関に近い6畳間(床の間や箪笥置き場を入れると、実質8畳はある)を貸して、貸料を取ったので何とかなったわけだ。売れた商品の配達を手伝ったこともある。
 ここに住んでいるとき結婚したが(昭和43年1968年春/10月生まれだから27歳)、当初はヨメさんの言うことには “食うに困った” らしい。なので僕には内緒で実家(僕と同じ岡山。高校も同じ。6歳下)から1回だけだが仕送りしてもらったそうだ。<(_ _)>
 
 長女が3歳になったとき、家主さんから「出ていってくれ」との話がきた。ここから面白い話になる。「いやだ、出ていかん」ということが可能であることをご存知だろうか。法律でそうなっている。住んでいる方が強いのだ。ちなみに、話が横道にそれるが、イギリスでは1ヶ月も家を空けてバカンスで別荘に居て、帰ったら泥棒が入って、ちゃっかり住んでいたら、大金を払わないと泥棒は出て行かないそうだ。法律で決まっているので泥棒の方が強い。日本では、まさか泥棒に味方することはないだろうが、私たちの場合は、法律で住んでいる者が守られる。
 という事を家主さんは知っているから、争議にならないように、私たちに「ん百万円出すから、出てください」と言ってきた。もともと、この家主・間淵さんはとても良い人で、お婆ちゃんが近所に住んでいたが、長女が生まれたとき、ブラームスの子守唄の優しい音のするオルゴールをプレゼントしてくれた。現在も私のオーディオルームにある。
 家主さんは、この60坪ほどある土地と家を売れば(立地条件が良い。中央線武蔵小金井から歩いて10分もかからない)、当時、何千万円にもなるので、ん百万円くらいなんともない。
 これをもとに私は借金して立川の砂川というところにあった建売住宅を買って、この時、都立杉並工業に異動となり、通勤したわけだが、それは5年間ほどであった。というのは、この建売住宅を改装・増築したら、立派な家になったので、買いたいという人が現れて売ったら、結構な値段に値上がりしていたので売って、今住んでいるところを買って、ここから杉並に通うようになったわけ。
 都立王子工業高校への転勤は40代中頃だから杉並には十数年いたことになる。
 
 都立王子工業の話を少しさせてもらおう。面接時の校長先生は、穏やかで物静かな話のよく分かるお人で、この学校なら安心だ、頑張ろうと思い、「今後とも宜しくお願いします」と挨拶して、別れた。その日は3月末で、登校は4月3日からで良いとのお話だったので、約束どおり4月からの勤務になった。
 その第一日目に電子科の職員室に行った時のことだ。みんなに「杉並工業からの異動できました、窪田です。宜しくお願いします」と丁寧に挨拶した。先生方全員の「あ、そう」という冷たーい感じの目線にびっくり。そして科長から「ここが先生の机です」と案内されたので鞄を置いて、挨拶代わりに「今年は春が早いんでしょうか、ウチにはもうチューリップが咲きまして」といったら、科長はえへらえへら笑いながら「チューリップは5月に咲くものだよ」と、まるで僕が適当な事を言ってるかのような口ぶりで返答し、自分の机に戻った。
 それこそガーンだ。180度暗転。<これが王子工業の実態か>。
 そして、もうその日のうちに(あとで分かったことだが共産党員の体育の先生が)、「赤旗新聞を購読してくれないか」と、一部例として私に手渡して行った。<こんなものより相対論の本を読みたい>。
 
 その後、知れば知るほど、何とおぞましい学校だ、と閉口してしまった。傑作な例を一つお話しておきたい。
 確か4日後だったと思うが、入学式がある。その前日職員会議で、当日の式次第などの打ち合わせがあった。プリントが配られた。よく見ると、体育館で行われるのだが、向かって右側に新担任の先生たち、左側に東京都教育委員会の来賓やPTAの会長・役員などの席となっている。
<これはおかしい。逆だ>、そう気がついた僕は手を挙げて「このステージの来賓方と新担任が座る位置は逆になっていますね。向かって右側が来賓でしょう」と言ったら、教務部長に「本校の伝統だ。逆ではない」と、あっさり否定されてしまった。新参者が生意気言うでないと謂わんばかりの口ぶりだった。その後私は、自分が学年主任になるまで、一切この件に口出しはしなかった。毎年、この王子方式が続いた。卒業式も同様に来賓が左側となっていた。
 
 王子には数年ほどいたが、万事がこの調子だ。体育祭は毎年行われるが、土日には絶対にやらない。近所の女子高の生徒が来るのでダメというのが、その理由らしい。本当かな?ほかに理由があるのでは?共産党員が支配している学校だからではないか?
 等々なので、もう辞めようと決心した。もちろん生徒諸君とは仲が良かった。僕の持ち味かも知れない。体育祭の日、空き時間に鉄棒で大車輪して(40過ぎても一回転はできた)、くるっと空中で回って着地したら、みんながびっくり仰天、手を叩いていた。この時の写真も残っている。キャッチボールをして遊んだりした。
 
 そんなこんなで生徒諸君とは仲が良かったが、学校の雰囲気がよくない。来年学校を辞めようと思った年の秋に、年功序列か、選挙で学年主任になってしまった。そして担任を3年間やることになる。・・・
4月になった。例の入学式がある。プリントを見たら依然として逆だ。ここぞとばかり語りに語った(^_^)。
 
「僕が本校に赴任してきた4月当初、来賓と担任の先生の座る位置が逆であることを指摘したら、教務部長先生は誰だったか忘れましたが、『これが王子工業の伝統だ』と言って、僕の提案は一蹴されまして、その後私はひと言も、この件は職員会議で口出ししませんでした。
 壺井 栄の二十四の瞳の映画を観たことがありますか?卒業式はグランドで行われましたが、子供たちは全員校舎に向かっていましたね。大石先生扮する高峰秀子は向かってどちらに立っていましたか?左側ですね。PTA役員らしき来賓は?右側でしたね。
東京文化会館にコンサートを聴きに行かれた先生は思い出して下さい。指揮者は左側つまり下座からステージに来ましたね。
銀座の歌舞伎座に行かれた先生は思い出して下さい。俳優さんたちは左側つまり下座から出てきますね。
 
 (緊急追加:2023年1月1日/匿名氏から次のメールがきました。「いま、NHKのニューイヤーコンサートを観たら、指揮者は向かって右側から出入りしていた!いい加減な事言うな!」。
窪田:細かいところを、よくご覧になっていましたね。感心します。あなたは一番最初からご覧になっていましたか?最初は “左側” から入って来ましたよ。これが全世界共通です。そして、途中から休憩などで出入りするのは右側からとなります。なぜか分かりますか?詳しく説明しましょう。2023年のウイーン・フィル・ニューイヤーコンサートの指揮者はウェルザー・メストでしたが、この人はウイーン・フィルの主席指揮者でもなく名誉指揮者でもなく、今年度の指揮者としてウイーン・フィルから依頼された客員指揮者でした。だから途中からは右側からの出入りとなったのです)。
 
(話を元に戻します) 以上のように、全世界で下座と上座は決まっているんです。逆であるのは本校だけです。今日もこのプリントは逆です。これを直してください。僕が学年主任を終わったら、また元に戻して王子方式にしてかまいませんから」と、演説(?)して座った。ざわざわと先生方のざわめきがあり、教務からプリントの訂正が述べられた。
 
 なお、学年主任には主任手当てが東京都から支給されるが、私は一度も貰ったことはない。あのお金はどこに消える王子の伝統になっているのだろうか。
 
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 学年主任中、思わぬ失敗をしてしまった。ここでパンチを食らう。ある遠足のとき、全員分の電車の料金の領収書(団体券)を僕が持っていた。で、降りるとき、その団体券を改札口で渡さないといけないのだが、僕はG組の担任で一番後部である。しかも責任上、A〜G組までのワルの一団がタバコなど吸ってないか、全員を見届ける必要がある。そのため本当に一番最後に改札口に来た。そうすると改札の駅員さんは「これで最後ですね」程度で、すんなり通してくれたが、後日の職員会議で「遠足は事故もなく終わりました」との報告をしたら、担任の一人が挙手をすることなく座ったまま、「ウソ付くな!窪田先生の怠慢でひどい目にあった。改札を出られなかった!」と怒鳴られた。
 司会者が「どういう事ですか?怠慢とは、窪田先生」と名指しで僕には “怠慢” があったと決め付けて説明を求めた。僕は「すみません、電車の団体券はA組の先生に渡しておくべきだったのですが、うっかり僕が持っていたので、改札を出られなかったようです。しかし改札の駅員さんが最後部の学年主任の先生が持っていると知ったので、生徒たちは出られることになったそうです。これが僕の怠慢ならお詫びします」と謝った。ドーハの悲劇ならぬ『パンチを食らった窪田の悲劇』は忌まわしい思い出である。
 
 学年主任が終わると同時に辞めた。平成4年3月31日付で。まだ51歳だった。
 
 相対性理論の勉強とオーディオ評論、アンプの設計と製作は王子工業にいた時も続いていた。知っていたのは教頭と校長先生だけだと思う。
 正確な年月は忘れたが、校長先生から「教頭試験を受けないか。どんな内容か指南して差し上げる」とのお誘いがあったが、丁寧にお断りしたのが、王子にいた時の最大の嬉しい思い出である。(註:なぜお断りしたのかは、読者の皆様は既にお気付きのことでしょう。私はオーディオと相対論に生涯を掛けていたからです)