先生と呼ばれるほどバカでなし、という揶揄(?)がある。大学の先生ほどになれば、社会から尊敬される偉い人というイメージはあるが、小中高ではそうはいかない。一般的には心の中で<な〜んだ>で済まされるのがオチだ。どこそこ会社の課長さんである、の方がずっと偉い。窪田君はどちらの道を選んだのだろうか。前者の<な〜んだ>である。民間会社は一社も受けてない。だから落ちたことは一度もない(^_^)。
 卒業する前から付き合っていた友達の先輩が「窪田君が教員免許を取ったのなら、帝京高校を紹介するよ。数学を担当してくれないか」との誘いがきた。僕って本当に運の良い男だ。すぐに帝京高校に決まった。面接は教務部長の先生だけだった。聞かれた事はたしか「得意なものは何か」くらいだったと記憶している。「数学と英語、スポーツ」と答えたのも覚えている。
 四月当初から勤務。新しい先生だとの紹介もあった。職員室を見渡すと、お歳寄りの先生が多い。一年生から三年生まで、ここで三年間お世話になることになる。その後、都立高校へ移るわけだが、帝京での思い出を一つ書いておきたい。
 
 初年度いきなり、四月末に実施している大島への遠足の引率をしてくれ、との話が教務からきた。もちろん即答でOKだ。大島には行ったことはないし、楽しいだろう。三原山はまだ爆発する前だったから(三原山の大噴火は1986年11月)、火口まで行く道があった。そこへ行く途中で、前を歩いている生徒に「おーい高梨君、待ってくれ。一緒に歩こう」と声をかけたら、止まって待ってくれて、一緒に歩くことになったのだが、非常に嬉しそうに「先生、入学して、外で僕の名前を呼んでくれたのは、先生が初めてです!」と声を弾ませて言ったのだ。「教室では出席を取るために呼ばれていますが、外では窪田先生が初めてです」と、なおも嬉しそうに私の歩幅に合わせながら言った。「おお、そうかい。とっくに君の名前は覚えていたからね」というと、身体を摺り寄せて一緒に歩いてくれた。
 僕が教師になって、一番最初に<教師にとって最も大切な事>を高梨君が教えてくれたように思う。「おい、君」とか、「おい、そこの」とかは人を呼ぶ言葉ではない。ちゃんと名前を呼ぶのが大切だ。
 この事は(私には二人の娘がいるのだが)、次女が NTT docomo に入社して、現在は後輩の指導に当たっている上司となったが、「なった」という報告を受けた時、真っ先に教えた。「ちょっと、あなたや、ねえ、あなたは、人を呼んだり、こちらに注目させるための呼び方ではない」と。「必ず名前を呼ぶようにしなさい」と助言した。
 
 帝京高校での最後の思い出を書いておこう。三年後の夏、東京都立高校の教員試験があった。受験することにした。別に帝京高校がイヤになったのではないし、居心地が悪いわけでもない。母が「公立の方がいいよ」とよく言っていたからだ。
 教務部長に「都立高校の試験があるので、受けてみようと思います。受かったら来年の三月で、こちらを退職することになりますが、よろしいでしょうか」と丁寧に相談してみた。先生は「本校にとって君を失うのは残念だが、君にとっては良い選択肢だ。若い者が東京都あたりで活躍するのは、私なんかからすれば羨ましいことだよ」と、励ますように承知してくれた。
 
 その都立高校の教員試験には懐かしい思い出が二つある。
大学時代の友達が民間会社に勤めていたが、やめて教師になりたいと、常日頃私に相談していた。教員免許はもちろん持っていた。試験のあることを伝えると、大変喜んで「一緒に受けよう」となった。
 試験会場はどこかの学校の教室だったと思う。筆記試験と面接だ。筆記試験はそう難しいものではなく、今まで勉強してきた範囲のもので、自分ではマアできたと思った。面接は一人づつ。面接官は五人の偉い方だとすぐわかるが、話をしているうちに<これ校長先生たちではないかナ>と思われた印象が残っている。
 いろいろな話はあったが、一番盛り上がったのは「君は現在、帝京高校で数学をやっているんだね。面白いかね」とか、「女子はいるのかね」とか、「学校の印象はどうかね」とか雑談のような内容になったのが、僕の緊張がほぐれていった時間だった。
「みんなよく勉強してくれるので楽しいです」、「女子はいないです。男子校なので」、「学校の印象ですか。えーと、あの学校は帝京大学の姉妹校なので、殆どが帝大に進む、お金持ちが多いです」と答えたら、試験官先生みんながどっと笑って、すっかり和(なご)んでしまった。
 最後に訊かれたのは「今日、都立の試験があるのを校長先生に伝えたのかね」との質問だった。ぼくは正直に「いえ、校長先生には言ってませんが、教務部長の先生には相談しました」と答えたら、間髪入れず「教務部長は何と言った?」と、面接試験官の中で一番偉いと思(おぼ)しき先生が質問を投げかけた。これも正直に「本校にとって君を失うのは残念だが、君にとっては良い選択肢だ。若い者が東京都あたりで活躍するのは、私なんかからすれば羨ましいことだよ」という内容をスラスラと答えられた。
 思えば<教務部長に言っておいてよかった>と考えられる。もし内緒で受験したように面接時に取られたら、合格したかどうか疑問である。
 ちなみに、一緒に受験した友人は合格しなかったが、翌年、もう一度挑戦して見事合格している。この友人は後に三遊亭円楽(星の王子様)の妹と結婚した。プロポーズするまで円楽さんの妹とは知らなかったそうだ。結婚式に呼ばれて行ったが、円楽さんは仕事の関係で出席できなかった。
 
 もう一つの思い出というのが、また面白い。都立の試験後、その友人とぶらぶらと帰る途中で、内幸町を通りかかったとき、人々が沢山行列で並んでいるので、「なんですか、これ」と、一人に尋ねたら、「NHKの “私は誰でしょう” の公開録音があるんだ」と教えてくれた。僕もこの番組は知っていた。
「俺たちも入るか」と言い、並んだ。ちょうどその時、係員が来て二列だったのを四列に分けて我々は、かなり前の方に座れた。ラッキーだった。で、まもなく各種の注意が館内放送されて番組の録音が始まった。出場者はハガキか何かで抽選で当たった人である。
 何人か次々に答えていって、番組も盛り上がったが、ある人が「花巻に実家がある詩人」という司会者のヒントに答えられず、次のヒント「そういう者に私はなりたい」でも答えられなかった。かなりアガッているようだ。こうなるとアタマが真っ白になって普段ならすっと答えが出るようでも出なくなってしまうものだ。最後のヒント「銀河鉄道の夜とか、雨にも負けず、です」でも答えが言えず、ブーとなってしまった。司会者が「残念でした、では会場の方でお分かりの人」と言ったのだが、僕が前の方にいて、「・・・会場の」まで言った時、パッと手を上げた。「はい、あなた」と僕を指差した。「宮沢賢治です」「ご名答!」、ステージの出場者に向かって「宮沢賢治ですね。思い出しましたか?」「あ、はい」というやり取り後、僕に向かって「お名前は?」というので「窪田といいます」、「窪田さんですね。ありがとうございました」と、その問題は終わって次に進んだ。
 進行中、係員が腰を低くして、そうっと僕に近づいて「窪田さん、終了後楽屋に来て下さい。お礼があります」という。
<え?>と思ったが、「はい」と小さな声で返事をした。
 言われた通り、終了後楽屋に行って「窪田ですが」と言うと、係りの人が「有難うございました。アルバムです」と言いながら、ずしっと重い、分厚い箱にNHKのロゴの入ったアルバムをくれた。
 あとで開けてびっくりだった。立派なアルバム帳だ。現在も使わないで記念に本棚に置いてある。