現在はどういう制度になっているか知らないが、当時は人事権は各学校の校長にまかされていた。だから東京都から送られてくる合格者名簿から成績や自宅からの距離など勘案して校長が選ぶ。またコネがあれば、即採用となる場合もある。
 僕は当時、春日町から茗荷谷に移り住んでいたが、帝京高校を辞めると同時に、兄の仕事の関係で武蔵小金井に引っ越すことが決まっていたので、一番最初に「採用したい」という通知がきた世田谷高校は距離があまりにも遠いので、事情を書いて丁寧にお断りの手紙を出した。
 近所に小金井工業高校があるので、ここならいいのにと思ったが、コネはないし、待つしかない。ぼくがどの位の成績ランクなのかは知る由もなく、終わってしまったら、次の年まで待たねばならない。
 ちょうど、そうこうしている時、府中工業高校から「採用したいが」と通知がきた。ここならいい。自転車でもオートバイでも10分〜15分で行ける。早速面接をして四月から行く事になった。
 この学校での思い出も多い。僕の将来を変えたかも知れない話もあった。教鞭だけでなく、授業がないときは進路指導部に配属され、求人会社の人事部から来る客と応対しなければならない。当時の日本は神武景気以来の繁栄振りで求人は毎年多かった。
 
 ある日「生徒さんだけでなく、窪田先生にもお願いがあるのですが、ウチの会社に来てくれませんか」というのだ。印刷屋さんであったが、詳しくお聞きしたら、「これからの時代は電子技術によるオートメーション化が進むと考えられます。そこでぜひ先生が中心になって開発を進めたいのです」という主旨だった。母の顔が浮かんだ。<公立学校がいいよ>である。
 それに僕はアンプの開発・研究なら飛びつくが、印刷関連では一から勉強しないといけないので、まず無理と判断して、あやふやな返事をせずに、はっきりと「有難うございます。恐縮です。しかし私には出来そうにありません。私より本校の生徒の就職の方を宜しくお願いします」と、お断りした。その後、この会社は本校の卒業生を毎年採用してくれたのを記憶している。
 
 もう一つ思いもしない凄い話が舞い込んできたことがある。それは、ウチの学校に講師で来ていた若く顔立ちの良い美人の英語の先生だったが、授業が終わったらすぐ帰宅するし、挨拶程度で、話はしたことのない女性だった。
 ある日「放課後でいいですから、お話があるんですけど」と言ってきた。<何だろう>と思い、「はい」と返事をして放課後に誰もいない図書館の別室で逢うことにした。
(この時、偶然に某先生に見つかり「アッ、君たちはこういう関係だったのか」と勘ぐられて、あらぬ噂を立てられた。悪い気はしなかったが。だって凄い清楚系美人だから・・・)。
 話を戻すが、彼女の父親は東大の光学部(工学ではない)の教授で、助手を探しているとのこと。「微分方程式が解ける程度の学力があればいいと父は言ってますが、窪田先生来てくれませんか。お給料は国家公務員ですので、その規定になります」という。いやはや、考えた、考えた。かなり沈黙が続いたあと、「今度学校に来るのは何曜日ですか?」と訊いて、「それまでに考えておきます」と、その日は別れた。やがて次の週だったが、結局お断りしたのだ。
 今から思えば<マイケルソン・モーリーの干渉縞実験や、その後発明されるレーザーやそのレーザー測距装置などの開発、相対性理論に使える実験が実際に自分で出来る環境に飛び込むことになったのに、惜しいことをした>
という反面、<であっても(c−Vcosθ )の発見が出来ただろうか、行かなくて良かった>という “神の声”(?)も聞こえる。
 島倉千代子の「人生いろいろ」である。
 
 都立府中工業高校での思い出は楽しいことだけではない。極めて無礼な仕打ちを受けたことがある。ある日、実験室にあるレコードプレーヤーのカートリッジが無くなって大騒ぎになった。私がオーディオの専門と謂われるほどオーディオが好きだったことは電気科の先生たちは良く知っていた。ところで、そのカートリッジが三日ほどして見つかった。プレーヤーに着いていたのだ。なんという偶然か、私がそれを発見したのだ。電気科職員室に戻って「カートリッジがありました。トーンアームに着いていました」と言った途端、みんなが一斉に、あさっての方を向いて無口になった。
<こいつら、僕が盗んで大騒ぎになったので、元に戻して、自分で発見したように見せかけたと思ったな!>、アタマにきた!
 その後、一週間以上、電気科の先生たちはギクシャクしていた。上司(科長)がもし人間的に優れた人なら、「カートリッジが見つかったかね。それはよかった」と言って、事を収めれば良いのだが、そういうアタマの持ち主ではない。何事につけても、人をバカにする先生だった。例えば、次のような思い出がある。職員何人かで泥が詰まりやすくなった側溝をきれいにする作業をしていた時だ。かなり臭い匂いのする泥だった。「窪田先生は、こんな仕事なんかした事はないだろう」と平然と言った。<僕の事をそういう目でいつも見ているのか。僕の子供の頃を何も知らないで。どんなに汚い仕事でも母と一緒に手伝ってやっていた。厠(かわや)の掃除など、いつも僕がやっていた。こんな溝掃除なんてどうってことない。この野郎!>
と腹が立ったが、上司に反論したって何の得にもならない。背中を睨み付けて我慢したことがある。
 
 話を戻そう。犯人はオーディオに興味を持ち始めていた助手のB君か、C君か、今になっては迷宮入りだが、冷静に考えれば、僕が発見したとき、そのまま放っとけばよかったと思う。誰かが発見するだろう、それで、その人物が犯人扱いされるのだ。濡れ衣とか冤罪(えんざい)という言葉がある。まさに、それを地でいった話である。
 ところで、ここでふと奇妙な事実を思い出した。この事件のあと、助手のB君が「先生の家のオーディオを聴かせてくれませんか」と、おどおどした態度で言ってきたのだ。私は断る理由も無かったので、「ああ、いいよ、今度の日曜日の午後」という約束をした。ウチに来たとき、何だかソワソワしていた。そして次の週も「聴きに来たい」というので「いいよ」と約束した。ところが次の週は約束をしてないのに、突然やってきた。私はアンプ製作で手が離せなかったので、家内に「忙しいので、今度にしてください」と言ってもらって、返した。それ以来来なくなった。私は学校でのB君との接し方は従来と変わらず、普通に付き合ったが、彼は私に対して妙な態度だったのを覚えている。
 
 生徒諸君とは仲がよく、みんな私になついてくれた。グランドが空いている日に自分の授業をやめて野球をして遊んだこともある。別に生徒の機嫌を取るためではない。毎日毎日キルヒホッフの法則など難しいことばかりやっていると飽きてくるだろう。たまには遊ぼうというわけだ。
 
 音楽が好きだったためクラブ活動はブラスバンドの顧問をやった。事務長が物分りの良い人で、楽器も部員全員に渡るだけ毎年買い揃えてくれた。
 私は昭和43年(1968年)の春結婚したのだが(10月生まれだから27歳)、その年の夏休み8月に群馬県の猿ヶ京温泉にクラブで合宿に行った。といっても、そんな豪華な温泉ホテルに泊まれるだけの予算はない。眼下の赤谷湖の湖畔にボロっちい、というと悪いが、民宿があったので、そこで合宿をやった。練習は広い土間を借りてやる。現在は整備された観光地となっているだろうが、当時は野っ原だったので、大きな音を出しても平気だ。十五人ほどの生徒が思いっきり楽しめた合宿だった。
 三日目だったか、四日目だったか忘れたが、武蔵小金井の借家に一人でいるヨメさんに電話した。「来る?」、「うん、行く」、電話代が高いからこれだけだ。本当に来た。国鉄の電車に乗って、バスに揺られて、<まあ、よく一人でこんな遠〜いところまで>。ヨメさんは生徒諸君とあまり歳は離れていない。21歳だから三年生は2〜3歳しか離れてない。生徒たちは喜んで「先生、あしたは練習なんかしないで渓谷の吊り橋など見学勉強しに行こうよ」となる。こういうことはすぐ決まる。一日、あっちこっち歩き回って遊んだ。このときの写真がモノクロだが何十枚も残っている。
 
皆んな民宿の草履を履いている
 
 こういう事を書き綴ると、窪田って甘い男だなと思われるかも知れないが、そうでもないことを知ってもらいたい。体育館の修理中だったと思うが、十二月末の寒い日に終業式を中庭でやったときのことだ。教務部長が壇上で話をしているとき、自分のクラスのワルの一人が両手をズボンのポケットにいれたままにしていたのを見つけて、つかつかっと寄って「手をだせ!」と手首を持って引っ張りだした。それを見ていたのだろう、あとで校長が「窪田先生は厳しいんだね」と仰った。ぼくは「いや、礼儀は礼儀ですから。普段は厳しくしています」と応えた。このほか通常の授業でも「窪田先生のクラスは静かでやりやすい」と、よく言われていた。「礼儀正しく勉強しろ、遊ぶときは遊ぶ、けじめをつけろ」と、日頃から厳しくやっていた。
 
 もう一件懐かしい思い出を書いておこう。私のクラスに落ち着きのないグータラな男の子がいた。授業中によく叱っていた。ある日、授業が終わった放課後、学校にその母親が、その子と一緒に来た。僕も呼ばれて職員室に行った。
 と、突然その母親が、当時近藤先生という教頭先生に向かって「息子と窪田先生は馬が合わないようです。担任を変えるか、ほかのクラスに息子を変えるかして頂きたい」と怒鳴り込んだ。教頭先生は何とお答えになったと思いますか?
「お母さん、息子さんが社会に出て勤めるようになった時、その会社に息子さんと馬の合わない上司がいたら、こうして、会社に乗り込んで職場を変えてください、って言えますか?そういう事では息子さんは、いつまで経っても立派な社会人にはなれないと思いますよ」でした。
 そばで聞いていた私は、これほど感動したのは、東京電力でアルバイトをしていた時、オートバイ事故を起こして科長に謝った時の科長の僕への対応以来であった。
 さすがである。母親は恐縮したようで、「失礼します」とお辞儀をして出ていった。教頭先生に「ありがとうございました」と言うと、「このくらいビシッと言わないと、ああいう母親は息子を甘やかし過ぎるんだよ。窪田先生の人柄は私はよく知っている。厳しさの中にも優しさのある先生だよ。今まで通りでいい」と仰った。
 
 二十代は以上のように帝京高校と都立府中工業高校で活躍したが、相対論だけは本読みだけだが、勉強は怠らなかった。大きな出来事は結婚したことと、長女が生まれたことだろう。