当時はかなりレベルの高い進学校として知られていた県立西大寺高等学校に入学して、大ショックを受けた。初めての数学の時間に、いきなり因数分解である。こんな数学聞いたこともなかった。ところが隣の席にいる久山君はすらすらとやっている。久山君は生涯の友となる人物であるが、西大寺中学校の出身である。山南中学校とのレベルの差があまりにも大きい。ショックを受けたたかし少年は立ち直れるのか。
 頭を抱えて懸命に教科書を読んでいた傍(かたわら)に担当の、いや担任の先生が来た。馬場先生という広島大学教育学部を卒業したばかりの若い先生だった。私のノートに書いてある窪田登司を見たのか、それとも担任であるため予め僕の顔写真や経歴を見ていたのか、「窪田君、どうだい、分るか」と、名指しで優しく問いかけるように言った。ぼくは「あ、いえ、ちょっと」としか言えなかったが、先生は教科書をめくりながら「この辺を読んでご覧」と指差した。よく読むとやり方の基本が書いてある。
 これが馬場先生と私の初めての会話であった。そして私を支えてくれた恩師となっていく。思えば中学の恩師片岡先生にしても、高校の馬場先生にしても、良い先生に恵まれたと心から感謝している。
 入学後しばらくして中学校のレベル差は、主に数学と英語であることに気づいた。英語は中学の恩師片岡先生が英語の先生だったこともあり、得意だったし、数学も理系のDNAを持っているからか(?)、好きである。たちまち2次関数、3次関数の因数分解もできるようになった。
 英語も教科書を流暢な抑揚のあるしゃべり方で読んだら担当の南(みなみ)先生が驚いた。その時「君は帰国子女かね」、「いいえ」の会話があったのが、それを象徴している。この日の英語の授業はそこで中断し、南先生が英語で「アメリカ映画・海底2万マイル」のあらすじを話始めた。みんなキョトンである。もちろん僕も目を白黒させただけあるが、身振り手振りで面白いシーンを強調して話すので、な〜んとなく潜水艦の名前はノーチラス号で、船長はネモって言うんだなくらいは分かり、要するに冒険物語だ、ということは分かった。現在は小学校から英語の授業があるようだ。最近の子供は恵まれている。
 
 そんなこんなで高校生活は楽しかったが、後々の中間考査や期末試験では、いつも久山君には負けていた。5点差でも負けは負けだ。彼は私にとって特別な存在だった。2年生のある日、ホームルームの時間に「自由時間にする。好きな所に遊びに行ってよい」とのこと。私は彼と一緒に近くの丘に登った。頂上で腰を下ろして二人で色んなことを話したが、内容は覚えていない。
・・・坂の下の方から女生徒の何人かが僕らに向かって手を振った。二人笑顔で大きく手を振って応えた。女生徒達は<キャーキャー>と騒いでいた。まるで子犬が喜んでじゃれているようだった。懐かしむれば、これが<青春の真っ只中>だったのだろう。本当に懐かしい。二度と訪れない青春である。
 
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 アインシュタインが亡くなったのは1955年、私が中3のときだ。そのときは世界中がアインシュタインフィーバー。新聞、雑誌で大騒ぎ。著書もドーッと出版され、まさしく神様が亡くなったような騒ぎ振りだった。
 高校一年生の英語の教科書には早くもアインシュタインについて簡単な伝記が載っていた。
そのとき初めて The theory of relativity という横文字を知った。とにかく大天才であり、従来の物理学をひっくり返したという内容だ。
 
 図書館から相対論の本を何冊も借りて読みふけった。ワケが分らない。何のことかさっぱり分らない。時間と空間が曲がるとか、時間は一定の流れではなく観測者によって異なるとか、物差しは観測者によって縮む等々。もちろん高校生だからピタゴラスの定理は知っているし、ローレンツ因子の式そのものは分かる。ルートの中が負になったら虚数になる事くらい知っている。だが、なぜ物体が動いたら縮むのか、なぜ時計が故障しているわけでもないのに時間が遅れるのか、なぜ虚数になったら過去に行けるのかなどは、どう考えても分からない。式を見せられて「こうだから、そうなる」と書いてあっても分からない。著者はみんな分っている振りをして書いてある。
 ここでふと昨年、中3のとき読んだ偉人伝のアインシュタインを思い出した。「相対性理論を本当に理解できる科学者は世界に3人といないだろう」という文面だ。
 私の探究心に火がついたのは、このときだった。<よし、一生かかっても相対論を理解してみせる。世界で4人目になってやる!>
 たかし少年の決意は固かった。その後40歳くらいまで、徹底的に<理解しよう>と頑張ったのだ。40歳以降の話は後ほどしたい。
 
 思えば私の人生には3度の大きな転機が訪れている。小学校2年生から3年生になる春休み、山田のおじさん宅で『本』と出会った事。中学1年生の時、音楽の授業で『ウェーバーの「魔弾の射手序曲」を聴いて陶酔状態』におちいった事。そして高校1年生で『相対性理論』と出会った事。これら『読書』、『音楽』、『相対性理論』のうち一つでも欠けていたら、現在の私は存在しなかっただろう。
 
 高校時代のクラブ活動は体操部と天文部。図書部には入ってなかったが、図書の司書の女の先生に「窪田君は相対論の本しか読まないのね」と言われた事がある。ぼくは「小学生の頃から偉人伝が好きだったんですよ。でもアインシュタインを読んでから、ほかに偉人がいなくなった」と、お話したことがあった。
 
 電子回路への僕の台頭は2年生のとき一気に高まった。兄が秋葉原で東通工(現ソニー)のゲルマニウムトランジスターを2本買って送ってくれた時からだ。図書館にもまだ関連した本はなかった。そこで本屋さんに行き、雑誌を探したらあった。アンプだけでなく、トランジスター2本で発振器が出来る記事もあった。何度も何度も読み返して使い方(動作のさせ方)を理解して発振器を作った。完成してピーと鳴ったので嬉しかったが、<何とか、このピーの周波数を変えられないか>と、あれこれいじってみたのだ。
 すると、ある部分のコンデンサーまたは抵抗値を変えると周波数が変えられる!<これは面白い!>
 ちょうど、この頃だった。物理の時間に f=1/T という式を習い(これは交流理論)、T=CR であることも他の過渡現象の項で習った(これは直流理論、だから交流理論と結びつくには兀が必要)。これで C または R を変えれば f が変わる事が理論的に結び付いた。
 この件はホームページの(17)M物理学名誉教授 VS 窪田登司の最後部に書いたので読んで下さると面白い。
 僕の当てずっぽうの実験が理論的に可能である式だったのだ。早速スイッチを8個買ってきて、抵抗器の一方は並列にして、他方へは値の違う抵抗器を並べた。何を作ったと思いますか?(^_^)。
 スイッチは8個、そう、これは鍵盤に相当するもの。ドレミファソラシドだ。抵抗器は兄の残したもので、部品箱から探してくっつけた。とてもドレミファソラシドになってないドレミファソラシドだ(大笑い)。いくつも抵抗器を取り替えては音程を合わせていったが、そんなに音程がピタリ合う抵抗器はない。いま思えば抵抗器を8個並べるのではなく、半固定小型ボリウムを8個並べて、それぞれをドライバーで調整すればピタッと合うのにと、これまた大笑いだ。ただし、このやり方では和音は無理。異なる音程になるだけだ。和音にするには、それぞれの音程を発振する発振器を個別に作らねばならない。上述の例では8個発振器を作ればいい。そうすればドミソのスイッチを押せばドミソの和音になる。こうした電子回路への挑戦は将来の自分を決定づけた基礎だったと思う。
 
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 体操部での活躍。カメさんこと亀田先生。中学生の頃からやっていたが、基礎からやり直し。大車輪、平行棒、吊り輪、床運動、あんばなど一通りの種目は出来るようになった。
 3年生のとき、国体の予選に出場したことはホームページの(17)M物理学名誉教授 VS 窪田登司に書いたが、2年生の時、体育祭でもやった。プログラムに体操部の演技が加えられ、グランドの真ん中に鉄棒を設置して演技を披露する。大車輪で鉄棒をぐるぐると回るときは、アナウンスが「窪田君の華麗な演技をご覧ください」とやる。拍手喝采を浴びた。
 じつは「窪田君の」については、すでに学校中にその名が知れ渡っていた事の流れを、もう少し詳しく述べた方が面白いかもしれない。
 学校祭は1年おきに演劇(2日間)と体育祭を交互に行われるもので、僕は1年生では演劇<五木の子守歌>を、2年生では上記<体操部の演技>だった。3年生の時は国体の予選に出場するため猛練習していたので、演劇には参与できなかった。
 しかし、第一日目の、ある演劇が終わり、次の演劇の用意をするまで幕が下りているわけだが、この合間に当時流行っていたロカビリーをやらしてくれと、学校祭実行委員長に前の日に頼んだら、あっさりと「いいだろう」と許可が得られていた。それで成本君(仲の良かった友人で (04)同時の相対性という奇妙な話 のラストに掲載した1年生の時の写真の最下段が私で、3段目に居る)と二人でやったのだ。
 平尾昌晃の「星は何でも知っている」と、ポール・アンカの「ダイアナ」だった。成本君は演奏、私がボーカル。ギターを抱えて平尾昌晃の真似をする。前もって知り合いの女子生徒に紙テープを持たせておく。いわゆる “サクラ” だ。
「Oh please、stay by me Diana」の歌詞のところでは、前の方にいる女子たちを指さして唄う。「窪田く〜ん!」黄色い声が飛び交う。盛り上がった、盛り上がった。体育館が割れんばかりの大歓声で埋まった。このとき唄っている私と成本君の写真がカラーのポジフィルムに残っている。ネガではなくポジだ。
 で、これは、これで良いのだが、全校で一番ワルと言われていた氷屋の時岡君も私たちの騒ぎを見ていたのだ。彼いや彼らの一団五人は学校で禁止されている夜のアルバイト〜岡山市内のジャズ喫茶で演奏するセミプロと謂われるほどの腕前を持つ不良グループ。そのカシラが時岡君だ。僕もよく知っている。悪い子ではない。
 彼が近寄ってきて「窪田よー、あしたワシらとロカビリーやらんか、実行委員長に頼んでみてくれ、ボーカルはおめえだ」
 
 ぼくは悪い気はしなかった。<高校最後のお祭りだ。今日の学校中が大騒ぎしたのを、もう一度やれれば楽しい>。そう思って学校祭実行委員長に頼んでみた。どうも、この時の委員長の名前が思い出せない。顔は浮かぶのだが、名前が出てこない。成績の良いトップクラスの友達なのに。
 頼んだら次のような返事だった。「ダメだ。時岡らとやるのは俺の判断では出来ん」。「じゃあ、やめようか」、がっかりして、そうつぶやくと委員長は「教頭先生に頼んだらどうだ、それでOKなら、俺の責任で許可する」と、助言してくれた。さすがに学校祭実行委員長になるほどの人物だ。
 教頭先生のところに行って事の成り行きを説明して頼んでみた。すでに今日の体育館の大騒ぎは知っていたようで、にこにこ笑いながら「凄かったのオ、今日のロカビリー、窪田君が歌が旨いのは知っていたが、ロカビリーをやるとは思わんかったよ。たしか昨年は、えーと・・・」、「いえ、昨年ではなく一年の時です、演劇で五木の子守唄をやりました」、「あ、そうか一年生だったかのオ、職員室でも話題になっていたよ、君がボロ服を着て子守をしながら唄ったのオ、覚えているよ、前の方の女子生徒が泣いて涙を拭いていたそうだよなア」・・・この時の写真もモノクロだが手元にある。話がすっかり2年前に戻ってしまったが、ふと我に返るように「ああ時岡君のことだが心配せんでえエ、一緒にやってみイ」
 
 委員長も委員長だが、さすが教頭先生だ、よくわかっている。もし時岡らではダメだと許可しなかったら、ボスである時岡君の立場は失墜するし、学校に対して反感を持つだけだ。
 嬉しかった。早速、委員長に許可が出た事を告げると、彼は即座に行動を起こした。それはプログラムを一つ増やして幕間(まくあい)ではなく、ステージでの『ロカビリーショー』にした。そして関係者に「予算はあるから紙テープを買ってきてくれ」と指図をした。
 次の日の成本君を含めて計七人による『ロカビリーショー』がどれだけ派手であったかは想像に難くないと思う。この時の写真もモノクロだが、アルバムにはいっている。
 練習は、泊まりで時岡君の家でやった。唄う曲は平尾昌晃の「星は何でも知っている」と、ポール・アンカの「DIANA」だが、もう一曲ポール・アンカの「You arey Destiny」だった。セミプロと謂われるほどの楽団(?)だ。これらの楽譜はちゃんと持っていた。
 
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次の写真は大車輪の練習風景ですが、鉄棒を逆手ではなく、順手で持っていますね。ということは身体はどういう方向にぐるぐると回るのでしょう。身体の動きを想像してみてください。ガーッと鉄棒の上で身体が垂直になります。それから?そうです!逆さまです。後ろ向きに回転します。これを逆車輪といいます。オリンピックや国体の体操競技を見ていると、選手はいとも簡単にやってますが、難しいんです。
 じつは私たちが国体の予選に出場した時、山下君という友達が鉄棒から落ちたんです。まア落ち方が上手だったから怪我はしなかったですが。じつは、じつはですね、私も学校での練習中ですが、平行棒の上で一回転するとき、両手がバーから外れて落ちたことがあります(^_^)。これって動体視力の問題なんです。どんなに早く空中で回転していても、周りの景色や大切なバーが見えてないといけません。見えていれば落ちることはないですよね。パッと手がバーに行きますから。上記の山下君が鉄棒から落ちた時も、ちゃんと周りが見えていたから怪我をしないように手が動いたんです。僕の平行棒から落ちた件、二度と落ちたことはありません(^_^)。
 皆さん、よくご存じの例を一つ述べますと、フィギュアスケートの選手の演技のラスト、もの凄いスピードで回転しますね。そして、ピタッと音楽の終了に合わせて、審査員の方向=正面に止まりますね。あれって回転中にちゃんと客席や正面が見えているんです。凄いですね。大拍手!です。
             
 
 
後ろ回り空中回転で着地寸前