ほんの少しの地軸の変動で、こうまで地球上の気象の変動や地球内部のマグマの動きまでが変わるものだろうか。
 過去にも何千万年に1回くらいの割合で、地球の地軸が反転していることが、地層の磁気を観測することによって判っているが、これは、彗星が衝突するとか、小惑星が衝突するとか、近くを巨大な天体が通ったとかなど、外乱によって起こったものではなく、地球の微少な歳差運動回転によって、定期的に地軸が変わっていることによるものである。したがって急激な変動ではないので、おそらく気象の変化や内部のマグマの動きは、ゆっくりとした変動のため、地球上ではその影響は無視できたであろう。生物もそれに適応して進化したに違いない。
 ところが、いまわれわれが目の当たりに見てきた新惑星の誕生は、急激な勢いで進み、引力の変動を太陽系に及ぼしている。火星表面も従来にない、壮絶な砂嵐が吹き荒れていることが観測されているし、金星の表面も何らかの異常が起こっているらしく、あの宵の明星で知られる明るさがなく、鈍い光に変わっている。
 幸い地球は殆どが海であるため、表面を覆うような砂嵐は発生してないが、局所的な異常が至る所で起きている。フィリピン沖で発生した台風が北上したあと、沖縄から日本の方向に来ないで、黄海を抜け、ターシンアンリン山脈を越えるという異常さ、同様にギニア湾沖で発生した台風がナイジェリア、ニジェールを通り、サハラに豪雨をもたらした。
 地球上で高気圧が出来たり低気圧になったり、雲が流れ、雨が降り、台風が出来たり、竜巻が起きたりするのは、すべて地球表面の空気層のエネルギーが一様になろうとし、平衡を保とうとするためである。したがって通常の気象状況は自転とともに、移り変わる方向が大体決まっており、予測が立つものである。
 しかし、いまや地軸の変動による急激な異変はランダムをきわめ、どこにどういう異常をもたらすか判らぬ事態となっている。北極のボーフォート海の氷が、今までの二十倍の速さで溶け始めたという情報も入ってきた。
 地軸の変動は地下深くのマグマにまで影響が及んでいる。世界各地で地震が発生しているのだ。それもマグニチュード7とか8、震度6や7という大きな地震ではなく、震度では4とか5程度の揺れが頻繁に起こるようになってきた。明らかにマントル対流に異変が起きている証拠である。陸地に続く岩盤を押すベクトルが変わったためであろう。
 しかも数時間後に、どのあたりで発生するという予測が確実にできるようになってきた。それは地震雲である。2つ、3つと縦に伸びる地震雲の場合、それらを結ぶ線上の大地の地下で断層が発生するのだ。断層岩盤を押すベクトルは強大で、そのズレは時には光も発生するが、超音波や電磁波も発生する。最も大きいものは摩擦熱である。岩盤の押し合う時の摩擦熱は強大で、地表から垂直に熱気流として上昇する。それが周辺の空気を巻き上げて地震雲となるわけだ。そのほか地電流の変化もある。大地には場所によって電位差があり、それらによる地電流が常時流れている。その地電流が断層を起こすベクトルA層とベクトルB層の間で大変動として流れるのである。この場合は数秒後に大地震となる確実な予測となるが、地電流の変化はすでに1週間前から起き始めているので、この観測は地震予知としてきわめて重要なアイテムとなってきた。
 震度5程度といえど、強震の部類に入り、壁には割れ目が入り、弱い石垣やブロック塀は倒壊する大きさである。東京での、一日に数回という大きな揺れは、家屋にも甚大な損害を呈し始めた。
 
 茅場修は、武田博士の代理で太陽系異変対策委員会の再度の緊急会議に出席している。外は風速二十メートル以上の強風が荒れ狂っている。まともに歩くことは困難である。時折、三十メートル以上の暴風によって、弱い樹木は根こそぎになり、倒れてビルを直撃する。電車や地下鉄、航空などは運休、運航停止していることは言うまでもない。タクシーとバスが徐行運転ながら動いているが、それ以外の自動車は午後になって殆ど見なくなってきた。
「さっきから同じ事の繰り返しだ!判らない、判らないとは何事ですか!一体こういう事態はいつまで続くのですか。皆さん方の率直な意見を聞きたい。データの分析はどうなったのですか!」
 藤川委員長が興奮して怒鳴っているが、各委員は一刻も早く自宅に帰りたいという本音の方が強く、ビル全体のぎしぎしという音にかき消されて、口々に<はっきりした事は判らない>、<これ以上風が強くならないことを祈る>、<地震も大地震に発展しないことを祈ろう>と言い合うだけであった。
 今朝、召集がかかった時は、こうまで強風が吹き荒れてはいなかった。だんだん強くなっているようでもあった。ガクンとまた地震がある。
「茅場君、武田君は何と言ってたかね」
と、藤川教授が名指しで聞いてきた。
「はい。厳密な計算はなかなか出来ないので、はっきりした事は言えませんが、この一週間の新惑星のスピードを比較してみますと、大体一定して来ていますので、この異常状態は落ち着くだろうと、おっしゃっていました」
「そうなることを願うが、もしそうなるとしたら、あと何日くらいだろうか」
「一週間か、それ以上かかるかも知れません」
「そんなにこんな事態が・・・」
 と、同席していた三木本審議官が言いかけた時、ごーっと、またかなり大きな地震が起きた。壁にひびがみしみしっと走る。ガラスの割れる音、エレベーターが大きく揺れて、壁にどーんと打つ音、ビル全体がいまにも崩れそうな気配である。
 
 その頃、武田博士と白浜宏美は惑星研究室で、観測データの整理を急いでいたが、白浜は居ても立ってもいられない様子で、
「茅場さんは、いま大手町ですね。もう会議は終わったかしら。朝より風が強くなったみたいだし、わたし心配だわ」
「大丈夫だよ。心配しなくていい。今日はアパートには帰らないで、ここに来ることになっている。ここで泊まると言っていた。それより東京電力に停電のことを問い合せてみてくれたかね」
「はい。この程度の風と地震なら供給を止めることはない、と言っていました。局所的に電線が切れて停電になることはあるかも知れませんが、変電所で継電気を切るのは、余程のことがない限り、実行しない、と言っていました」
「そうか、ありがとう。・・・電話は混乱状態が続いていて、殆どかからない。さっき、自宅にかけたが、通じなかった」
「そうですか。・・・茅場さんも、こちらへ電話くれる頃ですが、まだです。会議が長引いているのか、それとも、かからないのかも知れませんわね」
 そう言って待ちわびている電話の方を向いた時だった。じじじっとその電話が鳴った。
「茅場さんかも」
 飛んで行って受話器を取った。
「はい。惑星研究室です。・・・先生ですか。いらっしゃいます。・・・先生お宅からです。美枝子さんです」
「あ、わたしだ。・・・茅場君?茅場君は、今日は私の代わりに大手町に行っている。例の対策委員会だ。それがどうした?おい、おい、・・・もしもし・・・切れてしまった。せっかちな奴だ。・・白浜君、きみはもう帰りたまえ。だんだん風が強くなってきたようだ。幸い雨は降ってないから、気を付けて帰れば君一人でも大丈夫だろう。私はここに残って茅場君を待つ。そして、ここに泊まるかも知れない。明日もこのくらい強風が続くようなら、危険だから来なくていい。待機していてくれればいい」
「はい、近所ですから、すぐです。・・・先生もご無理をなさらないで、ご自宅にお帰りになられた方がよろしいかと思いますが。・・・奥様と美枝子さん、ご心配になられているでしょう。風はともかく、地震で窓ガラスが割れたりしてますと、たいへんですし」
「そうだね。ありがとう」
 と、言いながら武田博士は時計を見た。3時前である。お昼だというのに、薄暗い。相変わらず外は強風が電線を唸らせ、樹木の葉っぱを吹き飛ばし、今にも折れんばかりの勢いである。こんな中を白浜君一人で、危険かなとも思ったが、普通なら五分くらい、まあ十分もあれば帰れる所だから大丈夫だろう、と見送った。
 白浜宏美は部屋を出て行く時、博士の方を振り向いて、にこっと笑顔で挨拶をした。まさか、これが最後の別れになろうとは・・・、博士も笑顔で応えていた。
 
 白浜は本郷通りから、自分のアパートの方には行かなかった。普段なら、ここから五分もかからない西片に向かう筈である。西片というのは、以前は戸崎町といっていた高級住宅、アパート、マンションが立ち並ぶ緑多い住宅街である。
 本郷通りを、そのまま南下して御茶ノ水の方向に向かった。ちょうどその時、平行して走る幹線通りである白山通りを、武田美枝子が車で、すっ飛ばして水道橋の方に行ったのだが、お互いに知る由もない。
 白浜宏美はタクシーを探したが、どれも相乗りだろうか、定員いっぱい乗って、風にあおられながら目の前を走り去って行く。華やかな町並みと打って変わって、どこもシャッターを固く閉ざし、強風と地震に怯えていた。軒下にへばりつくようにして本郷三丁目からJRと地下鉄丸ノ内線の御茶ノ水の駅まで来た。ここまで来ると、車の数は多かった。しかし外堀通りを新宿の方に行く車と、逆に両国、千葉方向に行く車でごったがえしているわりには、南北方向、とくに大手町方向に行く車はいたって少ない。白浜はタクシーが来れば乗ろうと探しながら、懸命に聖橋から小川町の方に坂を下りていった。このまま真っすぐ行けば日比谷通りに入る。
 
 その頃、武田美枝子は白山通りを南下して、神保町を過ぎ、一ツ橋にいた。首都高の高架道路の壁面が地震のため、剥げ落ちて、竹橋の所で交通止めになっていた。どの車も右往左往していたが、美枝子は学士会館の前に車を置いて、歩いて竹橋から大手町の方向に向かった。この辺りは大きなビルばかりで、軒下に身を隠すといったことはできない。ビルの谷間を吹き抜ける風は、さらに風速が高まる。何度も吹き飛ばされ、ビルに叩きつけられながら、太い街路樹に掴まりながら歩いて行った。平川門から気象庁の前を過ぎ、そのまま真っすぐ内堀通りを行こうかとも思ったが、皇居前広場は、何も風をさえぎるものがないので、なるべくビルの蔭を、と大手門から永代通りへ入り、すぐ右折して本郷通りから日比谷通りへ続く通りへ出た。
<もうすぐだわ。大手町会館は。茅場さんに会える!>
 必死の思いで、よたよたと歩きだした。その時だ。ごーっという地鳴りがした瞬間、掴まっていた樹木も一緒に体ごと放り投げられた。かなり大きな地震だ。歩道の側溝が何十メートルにも渡って、五十センチくらいガクンと落ち込んだ。道路にも亀裂が走った。落ち込んだ側溝に足を取られたが懸命に這い上がった。その時、「美枝子さーん」という女性の声が聞こえたようでもあったが、辺りの轟音にかき消された。地盤が弱くなったのだろうか、街路樹が次々と薙ぎ倒されて吹き飛んでいく。
 
 太陽系異変対策委員会は、あまりに激しい地震と強風によって、もはや話し合いをするどころではなかった。声さえ聞こえない状態である。中止を余儀なくされた委員は全員、逃げるようにその場を離れ、帰宅する者、泊まっているホテルに向かう者、知り合いの家に行く者それぞれ思い思いの方向に散っていった。
 茅場修は一旦1階まで下りてきたが、正面玄関のシャッターがすでに下ろされ、外に出られない。宿直の門衛に裏出口を教わり、富士見ビルの前に出てきた。しかし、割れた窓ガラスが時折しゅーっと音を立てて風に吹き飛ばされ頭上をかすめて行く。ひやっとして首を竦めるが、次の瞬間は自分の首がすっ飛ぶかも知れない。慌ててまた会館の中に逃げ戻ってきた。
<そうだ、地下鉄だ。このビルからそのまま地下鉄に通じている。何でそれに早く気が付かないんだ。多分動いてはいないだろうが、線路を歩いていけばそのまま白山通りだ>
 苦笑いをして茅場は急いで地下に走り下りて行った。案の定地下鉄は全線運休である。この地震では線路が曲がっているかも知れないし、第一、天井が崩れ落ちている所はいくつもあるだろう。ホームには人はまばらだった。午前中は地下鉄も動いていたので、みんなそれで帰宅してしまったのだ。ホームにいる人達は用事を済ませて帰ろうとしているサラリーマンばかりである。ホームで、線路に下りようか、どうしようかと迷っている様子だ。
 地震のために放送装置が壊れたのか、スピーカーのケーブルが切れたのか、構内放送はなく、駅員がハンドマイクで、危ないから線路には下りないようにと、怒鳴っている。
<そうか、線路を伝って行けばいいと思ったが、天井が崩れ落ちる危険もあるんだ>
 地震の時、地下鉄は一般に安全だと言われている。地震で大きく揺れるのは、地表面であって、地下20メートル、30メートルという深いところはあまり揺れないから安全だと地震学者は言っていた。しかし、実際にはどうだ。このありさま。自然現象を甘く見てはいけない。放送装置にしてもしかりだ。緊急放送設備と称していろんな場所に放送設備が導入されているが、ちょっと壁などが剥がれ落ちてきたら、一堪りもない。一瞬のうちに故障してしまって使いものにならなくなるのだ。
 茅場は生き埋めにでもされたら堪らないと、再び地上に出てきた。目の前は皇居外苑で風をさえぎるものはなく、まともに物凄い強風が襲ってくる。目が開けられないほどだ。どうっと吹いてきた風でふっ飛ばされて尻もちをついた。<こんな調子で帰れるのか、博士は、美枝子さんは、そして白浜さんは今頃どうしているだろう、暫らくは地下鉄のホームで休んでいようか、そのうち風が収まれば何とかなるだろう>、そんなことを考えてしゃがみこんでいた時、遠くで “きゃー” という女性の声がしたようだった。
 
 やっと立ち上がった武田美枝子は、左手の大きなビルの玄関の日差しの下に身を隠そうとした。シャッターは閉まっていたが、定礎という立派な石があったので、これにしがみついた。
 その時だ!
「美枝子さん、危ない!」
 と叫びながら、白浜宏美が駆け込んできた。見るや美枝子は、体当たりで突っ込んできた白浜にすっ飛ばされ、二、三メートル先にもんどりうって投げ出された。あの小柄の白浜宏美のどこにこのような力があったのだろうか。振り向いた美枝子は、目を覆った。
 どどっーと、上からコンクリートの雨避け日差しが崩れ落ちてきて、白浜は下敷きになり、押しつぶされた。
「きゃーっ、白浜さん!」
 美枝子は喉の声帯がまさにちぎれんばかりに叫んだ。駆け寄ってガレキを持ち上げようとするが、びくともしない。白浜の体はねじれたままである。ガレキの割れ目から突き出した鉄筋が胸をひと突きにしている。
「白浜さーん、白浜さーん!」
 ワーっと泣き崩れる美枝子の頭上にもコンクリートの破片が、なおも落ちてくる。とっさに白浜の顔を、自分の体で覆い被せて破片から守った。背中には、がつんがつんとガレキの破片が落ちてくる。女性の本能だろうか。顔を守るということは。
「白浜さーん、死んじゃいやー。わたしが悪かった。何もいじわるをするつもりはなかったのよ。茅場さんと、いつもお仕事をしているあなたが羨ましかっただけなの。許して!いやー、死んじゃいやー!」
「・・・・イイノヨ・・・」
 うっすらと目を開けて、白浜宏美は首を横に振った。肺は殆ど動かない。呼吸は止まりかけた。
「カヤバ・・サン・・ニ・・ツタ・・エテ」
「いいわ、何を、何を伝えるの。元気だして!何を言えばいいの!」
「トテモ・・タノシ・・カッタ・・・ト」
「言うわ、言うわ。元気だして。・・・誰かー、誰か助けてぇー!」
 見渡しながら声の限りに叫んだが、暴風と、なおも続く余震のため、むなしく掻き消されるだけであった。
「カヤバ・・サン・・ト・・オシア・・ワセニ」
・・・がくっと首の力が抜けた。
「わーっ、いやー、宏美さーん!」
 泣き叫びながら、美枝子は震える腕で白浜の頭を抱きかかえた。
 
・・・どのくらい時間が経っただろう。放心状態になった美枝子には、自分を見付けて走ってくる茅場には気が付くはずもなかった。
 そーっと白浜宏美の頭を置いて、顔をハンカチで拭いた。とてもきれいな顔だ。女性というものは、一生に二度美しい顔になる瞬間がある。白浜にとっては、初めてで最後のたった一度の美しい瞬間であるのだ。手にはしっかりと写真を握っていた。南京の玄武湖湖畔で茅場と一緒に写してもらった写真である。
 留めもなく流れ出る涙を美枝子は拭おうとはしなかった。拭う気力も、もう持ってなかった。