異変は地球にも確実に及ぶようになってきた。具体的には風である。風というのは、地球表面の温度差などで、気圧に変化が生じると、空気圧が一定となろうとして、空気が移動するものである。ところが、この異常な風は方向が西から吹いていると思えば、すぐ東から、あるいは南から、北からと、まるで方向の予知が出来ない、不定の動きを呈するものになっている。いわゆる天気予報がまったく出来なくなったのである。
 
 ここ紫金山天文台での観測も、もはや困難になってきた。日本のNテレビは、新生惑星の誕生の過程に興味があるようで、日本でも観測可能という事から、一昨日帰国した。また地元のテレビ局も、天文台からの情報待ちといった取材に変わり、すべての器材をいったん局に引き上げていった。
 孫万歌教授、李鵬陽、趙先雲、武田俊雄博士、茅場修、白浜宏美の6人は、互いに半年以上に渡る協力に、労をねぎらっていた。別れる時がきた。
 殆どが日本語だったとはいえ、白浜はすっかり日常語くらいなら中国語が話せるようになったし、茅場は南京の町は、もう自分の庭だ、というほど詳しくなっていた。
 武田博士は、南京大学での講演が最も印象的だったと、感慨深く述べた。その後も学生からの質問が多く、時折ゼミを開いたこともあった。
 李と趙は何よりも、若く美しい美人科学者白浜宏美と一緒に研究できたことを喜んだ。とくに趙は白浜への思慕が強くなっていったが、叶わぬ恋として終わったことに心痛を抱いていた。二人でデートをしたこともあったようだ。せめてもの楽しい思い出になったことを趙は、一人胸にしまっていた。
 孫万歌教授は昔馴染みの学者仲間である武田博士と、こうまで長い間一緒に働けるとは思いも寄らなかったと、手を取り合って別れを惜しんだ。
・・・観測機器群の荷作りも終わった。あとで、李と趙が運送会社を呼んで、間違いなく東京に送る、あとのことは任してくれ、と、にこやかに対応してくれた。
 
 強風のため、空の便は欠航が相次いでいるとの事だった。もうこれ以上一日も猶予はできない。急いで帰国することになった。南京から上海へは空路もあるが、強風のため全面欠航になっているとのことから、来た時と同じ南京から上海までは列車で、上海から飛行機で成田という帰路を取ることになった。とはいえ、成田行きも大幅に便数は減り、時間も遅れているという情報が入っていた。明日になり、明後日になり、遅れるほど気象の異常は増すばかりとなろう。一刻も早く帰国しなければ、それこそ帰れなくなる。
 
 南京駅には中国科学院の関係者や政府代表者、人民日報の記者とカメラマン、テレビ局の関係者、南京大学の学生まで多数が別れを惜しんで、あるいは取材にと集まっている。そういえば美人キャスター明令夏も、朝のニュースワイドの生放送としてマイクを手に、忙しく動き回っている。
 こちらに来た時には、こんなに大勢の送迎者はいなかった。たしか、孫万歌教授と李、趙はもちろんいたが、その他としては、政府関係者数名と、新聞社の記者とカメラマンだけであった。別れの時に、これだけ大勢来てくれるというのは、やはり武田博士一行の中国での活躍が大いに認められたという証しであろう。とくに、直接関与した天体観測だけでなく、中国の理論物理学への影響も武田博士の存在は大きかったようだ。もはや間違った発想から生れた相対性理論は、若い科学者によって否定されようとしている。おそらく日本や欧米ではなく、ここ中国がいちばん先に成し遂げるだろう。それを武田博士は確かな手応えとして感じとっていた。
 
 あちらこちらで、武田博士一行の今回の業績を讃える会話が続いていたが、京滬線の上海行き九時三十四分発特急列車が入ってきた。
「大変ご苦労さまでした。本当にみんな喜んでおります。・・・最後にひとことお願いします」
 明令夏がマイクをぐっと武田博士の口元に差し出してきた。カメラもアップで博士をとらえた。
「中国の皆様には、たいへん長い間、お世話になりました。満足な観測や理論的解析が出来たかどうか、心配ですが、私どもとしましては、出来るかぎりの努力をしたつもりでございます。・・・天体観測というと、すぐ、大口径望遠鏡によって、何十億光年もの遠い星雲が観測されたとか、どうのと、宇宙の広さを競うようですが、本当は身近な私たちの太陽系をもっと知ることが大切ではないでしょうか。そういう意味から、今回の紫金山天文台での観測は、かつてない充実した毎日でした。
・・・成長した新生惑星がどれほどたくさんの有為な資源を持っているか想像もできません。後世に残る大事件を私たちは目撃したわけです。・・・地球にちょっとした異変をもたらしていますが、そのうち軌道が安定すれば、前のように平和な地球に戻るでしょう。・・・それでは皆さん、さようなら、ありがとうございました」
 流暢な中国語で挨拶をした武田博士は、深々と頭を下げた。どっと拍手が鳴った。茅場も白浜も同じく「ありがとうございました」と日本語と中国語で言って頭を下げた。
 
 ここでハプニングが起きた。明令夏がマイクを現場ディレクターに渡すやいなや、白浜に抱きついたのである。目にいっぱいの涙を浮かべて、早口で何かを言ったが、白浜にはよく理解できなかった。しかし、別れに言葉はいらなかった。明は文字どおりくしゃくしゃの顔をしていた。白浜もぽろぽろと涙が出た。喉の奥がきゅうっと絞まった。テレビ映像は生でこれを中国全土に伝えた。台本のあるドラマではない。本当の別れの淋しさを伝えていた。
「お元気でね」
「あなたも、お元気で。そしてますますご活躍なさってください」
 二人はやっとの思いで声を出した。
 趙が、居ても立ってもいられない様子で二人に駆け寄ってきた。
「白浜さん、元気でね。・・・本当に楽しかった」
 と、白浜の手をとり、か細い声で言った。<元気でね>という別れの言葉ほど、別れにぴったりの言葉はない。趙がこんな悲しい顔をするとは、白浜にも思いもよらないことだった。どっと込み上げた感情に、白浜もついに声を出して泣いてしまった。
 李と茅場も名残惜しい堅い握手をしていた。お互いに明日を担う若い学者の意気昂揚がみなぎっていた。
 
 五分停車の列車には、すでに指定席に手荷物を関係者が運んでくれていた。ホームにはテレビの取材が来ている、明令夏も来ているということで、見物人が殺到して、歩くのも困難というほどであったが、武田博士、茅場、白浜の三人は、皆に見送られて、列車に乗りこんだ。
「さようなら・・・」
「ザイ ジエン」
「さようなら」
 白浜は、涙で濡れたハンカチをいつまでも振っていた。