昨日までの武田博士の講演は大変、若い学生にとっては刺激のある内容だったようだ。大学当局からも特別感謝状が出たくらいだ。しかし博士の理論は科学者の間では、とくに若い学者には指示されるが、古い頭の保守的な物理学者には、どうしても頭の切り替えが出来ないので、理解しようとか、理論を発展させようとかにならないようであった。それは日本でも同じである。
 昨夜は天体観測の方は李鵬陽の当番で、今日も趙先雲が一手に引き受けて、日本勢はゆっくりと骨休みして下さいということから、武田博士は孫万歌教授の自宅に訪問することになり、茅場と白浜は1日をゆっくり過ごすことになった。
 
 3人は朝食後、南京大学の寮から中山路に出て北へ歩いて鼓楼広場まで来た。南京の中心と言われるこの広場はトロリーバスが縦横に走り、どこへ行くにもここを起点にすればまず間違いない。明るく広い都会センスのあふれた、そして緑豊かなロータリーである。
 大鐘亭の見えるところまで来た所で、博士は、
「じゃ、私は孫万歌教授に会ってくる。君たちはゆっくりと玄武湖公園でも散歩するといい。久しぶりに私も孫教授と積もる昔の話をしてくるよ。今日は天文台の方の仕事はないから、私は直接、宿舎に帰る。君たちも適当な時間に戻ってくればいい」と言って、バス乗り場の方に歩いて行った。ここから中央路を北へさらに和燕公路の方に行ったところに孫教授の自宅があるそうだ。
 
 二人になった茅場修と白浜宏美は、鼓楼広場の鶏鳴寺の方に歩いて行った。城壁の向こうに玄武湖公園があるが、この鶏鳴山東麓にある豁蒙楼から見る玄武湖がもっとも美しいと聞いているので、上っていった。
「わーっきれい。こんなきれいな水の色は見たことないわ。それに樹の緑がとても鮮やかね」
 玄武湖がぱーっと目の前にひらけて、思わず白浜は感嘆の声を上げた。
「周囲の緑が湖水に映って一層青くなるんだね。正面に見える真ん中の島が菱洲だよ。左手の玄武門から入る島が桜洲、その向こうに覧勝楼も見えるだろう。黄金色の甍が何ともいえない奇麗なコントラストをつくっているね。ほら、あれ」
 茅場が右手で指差す方を見るかわりに、白浜は思わず茅場の左腕を組み、顔を腕に寄せていた。
<まあ私ったら、・・・・でもこうして腕を組むなんて初めてだわ、もうずいぶん長い間一緒に仕事をしているのに、手にも触れたことはない。茅場さんは私なんか眼中にぜんぜんないみたいだし。白浜はそれでもいい、こうして一緒にいるだけでも>
と心が踊る思いであった。
 惑星研究室では茅場に次ぐ技術の持ち主で、最新のコンピューターと、望遠鏡やドームの赤道儀や経緯儀制御をするソフトの開発までやってのける学者の卵であっても、やはり心に思う男の傍にいると、それだけで仄かな情が腕から体に湧いてくる一人の若い女性であった。
 茅場も、いきなりぐっと腕を強い抱かれるような感じで、白浜の体に寄せられ、肘から上のあたりに柔らかい胸の感触が伝わり、はっとしたが、動揺を隠すようにすぐ、
「あの島にはスケート場や動物園などがあるんだそうだよ」
 と、優しく腕を引き寄せた。回りには結構ペアーもいる。遠くから観光でやってきたのだろうか、家族連れの弁当らしき大きな風呂敷包みを持っている人もいる。カメラで楽しそうに写し合っている若者もいる。カメラといっても茅場の下げているような一眼レフの、しかもオートフォーカスという高級なものではなく、日本ではすっかり見なくなった一世代前の二眼レフだ。直方体の箱に、眼鏡を縦に置いたようなレフレックスタイプである。
 大きな松の樹のそばに10人ほど座れるベンチがあった。2人はどちらが座ろうというのでなく、そちらの方へ近付いていった。茅場はすぐハンカチを取出し、2人の座る所を拭いた。あまり汚れていない。入れ替わり立ち替わり多くの人達が使用しているようだ。鉄やアルミなどの金属製ではなく、木製である。素朴な作りであるが、大きくてがっしりとしている。座り心地もいい。2人はほぼ中央に座ったが、その傍、といっても一人分くらい空いているが、左右にも観光に来た人達だろうか、数人が座っている。
「ちょうど、この正面の、湖の向こう側だけど南京駅があるんだ。遠くから観光に来るんだろうね。ずいぶん人が多いね」
「そうね。そういえば今日は日曜日ね。中国も日曜日は休みとみえる」
 と、ちょっとおどけたような口振りで白浜が言った。傍に座っている人が訝しそうにこちらを見たが、すぐ、にこにこ顔になって何やら話合っている。多分日本人であることはすぐ分かるから、そのことを話題にしているのだろう。
「城壁をバックに写真を撮ってもらおうか」
 茅場がカメラの電源スイッチを入れながら言った。
「そうね。でも、言葉がちゃんと通じるかしら」
「標準語で言ってみるよ、多分大丈夫だよ」
標準語と言ったのは、じつはこの南京市はかなり方言の多い町で、北京でちゃんと喋れる人でも、ここでは、特にお年寄りと話をするとさっぱり分からないことが多いからだ。標準語の単語を並べてみよう、と茅場は
「マー ファン ニイ、チン ゲイ ウオ アン イー シア ジョー ゴ」
 と、傍にいた二十歳前後の若い男性にカメラを見せながら言ってみた。すぐ解ったらしく、
「ジー ダオ ラ」
 と言いながら、得意げに茅場のカメラを受け取ろうとした。
「ヂィスイズ クアイ メン」
 と、思わず英語と中国語のちゃんぽんで、シャッターボタンを指差しながら言うと、
「イエス、イエス」
 と、英語で答えた。回りにいた人がくすくすっと笑ったので、2人も顔を見合わせて笑った。ほほえましいひとこまであった。
 写したあとも、各種制御データが液晶表示される見たこともない高級な一眼レフであるためか、なかなか返そうとしないで、珍しそうに眺めていた。NIKONのF4である。
「中国の人って、こうやって素朴な感情を丸出しにするところが可愛いのよね。日本人は何かにつけて、自分をぐっと押し殺すところがあるもん」
 と、白浜がなごやかになったベンチ仲間を見ながら言った。その男は白浜の話に、自分のことを言われているのだと勘違いしたのだろう、急いでカメラを茅場に返した。
「シェ シェ」
「シェ シェ ニン」
 と、二人は丁寧に、その男やその仲間の人達にお礼を言った。
「ブ コー チ」
 と、その男は言って、仲間と早口で何やら話始めた。
「私たちと同じ顔をしているのね。中国の人って」
「逆じゃない?ぼくたちが中国の人に似ているんだよ。日本人は大きく分けて、北方から移住してきた者、朝鮮半島・中国系、そして南方から、と三つの系統に分けられるけど、ほとんどが朝鮮半島・中国系だもん。今でこそ日本人は大きな顔をして、世界を股をかけて闊歩しているようだけど、やはりルーツは中国、朝鮮半島だから、この人達と仲良くしてアジア帝国を作らなきゃ」
「帝国だなんて恐い言葉」
「ごめん。言葉が悪かった。要するに・・・・」
「うんうん分かる分かる。仲良くしてェ、貿易など盛んにしてェ、アジアの勢力を伸ばしてェ」
「そう。二一世紀はアメリカやヨーロッパより、むしろすぐお隣さんの中国やロシア、ちょっと遠いけど、オーストラリアなどと日本は仲良くしていく必要があるね」
「茅場さん、いつ経済学者になったの?」
「さっき」
 二人は顔を見合わせて声を立てて笑った。
「似てるけど、やっぱり違う」
 と、白浜はまだ中国の人にこだわっている。
「言葉と話し方で口や顔かたちも変わるのだそうだ。そのため長い間に日本人との違いが出てきたのだろうね」
 学者らしい理論的な説明が出てきて、白浜もにっこりした。
「そのようね。でも、瞳が真っ黒できれいね。どの人も」
「そう。瞳の黒さが中国の人の特徴だね。ぼくたちと随分違う。ぼくはちょっと茶色っぽい方だろう。きみは黒くて可愛いけど」と、白浜宏美を覗き込みながら茅場が言った。思わぬところで、可愛いなどと言われて女性らしいはにかみと嬉しさが交錯するのだった。
「九華山公園の方へ行ってみよう」
 と、茅場が言った。二人はまださっきカメラで写してもらった人とそのグループがいたので、軽い会釈をしてゆっくりした足取りで湖水の方に歩いていった。九華山は山といっても小高い丘であるが、さすが、中国あるいは大陸といった、日本では見られない風光を呈する明浄な趣を持っている。二人は途中休まず、一気に登ってきたので、はぁはぁいいながら頂上に立った。
「緑がきれいね。広々としていて」
 大きく深呼吸しながら白浜が言った。
「天文台からも見えていたけど、この間近に見える湖は格別だね。でも城壁や建物の影で揚子江は見えないね」
 やはり観光客が多い。中国語というのはかん高い声で喋るので何だかうるさく感じる。平日で人がいなければきっと静かだろう、と二人とも同じようなことを考えた。
「喉が乾いたよ。何か飲もう」
 と、茅場がきょろきょろと自動販売機を探したが、白浜が、
「あれ、甘酒じゃない?」
 と、白い布に甘酒と書いた旗の立っている茶屋のような店を見付けた。質素なおみやげ店である。注文した。2角である。玄武湖公園の入場料と同じだ。日本円にしてわずか7円。安い。量もある。店の外に腰掛けがあるので、そこで熱い甘酒をすすった。日本の甘酒のように甘くないが、なかなかおいしい。
「おいしいわね」
「うん、いける」
 景色の話や店の佇まい、自動販売機がないなど話をしていたが、お店の人も、その辺りにいる人も、日本語の二人を見て新婚旅行か、恋人どうしのように見えただろう。じじつ若い店員がちらちらとこちらを見ている様子がそれとなく判った。しかし、白浜にはそれが嬉しかった。私たち恋人なの、と自慢したかった。ふっと、東京にいる武田美枝子の顔が脳裏を霞めたが、いま私は茅場さんといる、私のものだ、と心でつぶやくのだった。
 
「茅場さん、どうして天文学者になったの?」
「また、薮から棒に。うん、天文学者に憧れていた事は確かだけど、やはり武田博士の影響が大きいね。理論物理学を専攻したのも教授と同じだし。教授とお会いしてから天文学の方にぐーっと傾いて、今の惑星研究室に入ったんだ」
「でも小さい頃から天文学は好きだったんでしょう」
「もちろん好きだった。中学校の時も、高校も天文部に入っていた。中学の時なんか、粗末な色収差の出る8センチ径の屈折望遠鏡だったけど、星をみるのが大好きでね、しょっちゅうクラブの顧問の先生を夜おそくまで引き止めて天体観測したものだ」
「そう。・・・・夜遅いとおウチの人も心配したでしょう」
「そうね、ずいぶん心配をかけたようだったと思うよ。今から考えると。・・・・そういえばこんなことがあったよ。夜遅くクラブが終わって、帰る時、あの日は月の観測だった。月明かりで、けっこう明るくて友達はみんなすいすい歩いて行くんだけど、ぼくはどうしても前がよく見えないんだ。目を皿のように開けて友達の後からついて行ったけど道が左右に別れて、友達は右にさっさと曲がって、バイバイって行くわけ。一人になったぼくは、どうしてこんなに道がみえないんだろう、と不思議に思いながら、文字通り這うような思いで家に帰ったんだ。無事に帰ったと思う?川だよ。川。川にどぼんとおっこちてびしょ濡れで帰ったことがある」
「まぁ」
「母が心配してね。次の日に病院に連れて行ってくれて、鳥目という病気だったんだ」
「とりめ?」
「そう。ビタミンAの欠乏で起こる夜盲症。当時ぼくのウチは貧乏で、食べるものにも苦労していた頃だったから、栄養不足だったんだ。その夜盲症を経験したことのあるぼくが天文学者になるなんて不思議だね」
<修さんは、見るからに好青年で、いつも穏やかな理知深い顔をくずさない素敵な人で、何ひとつ不自由などしたことのないような態度と風格を持っているのに、こうやって聞いてみると、苦労をしていたんだなぁ>と、白浜はふっと茅場の横顔を、いとおしく見るのだった。
「高校の時は?ずっと天文部にいたの?」
 飲んでいた甘酒も終わり、二人でゆっくり立ち上がり、もっともっと貴方のことを聞きたい、というように歩きながら白浜が聞いた。
「うん、高校の天文部では楽しい思い出があるね。1年生のとき、合宿で京都の花山天文台に、そうあの時は6名だったかな、見学に行って、天体についていろいろ教えてもらった。とても楽しかったよ」
「望遠鏡も見せてもらったの?」
「あゝ。ぼくが生まれて初めて本格的な学術観測用の望遠鏡を見たのが、それなんだ。とても感激したのを覚えている。おうし座のプレアデス星団M45やこと座のドーナッツ星雲M57を見せてくれた。もう胸がどっきんどっきん、興奮のしっ放しだったね」
「ふーん、わかるような気がするわ」
「あの日は天文台の宿直室に皆んな泊めてくれたんだよ、顧問の先生も一緒に。雑魚寝(ざこね)だったけど楽しかったァ」
と、茅場は昨日の事のように思い出しながら、目を細めて話した。
 
 二人はいつの間にか、玄武湖公園の反対側の太平門の方に下りていた。ここから富貴山の麓を数百メートル東へ行くと、左手に折れて天文台の方、右に行くと中山植物園を経て霊谷寺の方へ行く。途中に明孝陵や中山陵がある。
「中山陵の方に行ってみる?」
 茅場が言った。
「うん」
 普段は、はい、はいと丁寧な返事をしながら、てきぱきと仕事をする白浜も、ここでは愛する男へ甘える一人の女性である。鼻にかかった甘い声で返事をした。
「バスで行こうか」
「遠いの?」
「4キロか5キロはあるんじゃないかな」
「わたし、歩きたい」
 二人で一緒に歩きたい、それしか白浜にはなかった。
「わかった。じゃ、歩こう」
 二人はどちらがするとなく、自然に組んでいた腕を離し、手を握り合っていた。白浜は雲の上を歩いているようだった。自分の足がどこにあるのかよく判らなかった。宙に浮いているようだった。体がほてった。
 茅場も女性の手を、こういう淡い感情をもって握ったのは初めてである。柔らかいとろけそうな可愛いい小さな手だ。東京にいる武田美枝子の手を握った時は、こういう感情ではなかった。いけないことをしているのだろうかと、一瞬もつれた感情が錯綜したが、今は白浜君と楽しく過ごそう、そう心につぶやいて足取りを白浜に合わせるのだった。
 紫金山の麓はうっそうとしたプラタナスやポプラの樹木が生い茂る、緑深い別天地である。二人は無言で歩いた。白浜は手の温もりだけで十分であった。太平門路を15分、いや20分も歩いただろうか、しかし二人には5分くらいにしか感じてなかった。
「石像路にきたよ」
「え?」
「左へ行くと、明孝陵や中山陵があるんだけど、真っすぐ行ってみようよ。石像群がある石像路だ」
 ここから約1・8キロにわたって緑がよく整備された参道になっている。その両側には石像群が並んでいる。
「まあ、かわいい象さん。あれはラクダね」
「ライオンや馬などもいるね」
「立ったり、座ったりしているのが、何だか剽軽(ひょうきん)に見えるわね」
 ここも観光客でいっぱいである。いやよく見ると遠くから来た観光客ばかりではなさそうだ。地元の南京市の人たちが多いのかも知れない。憩いの場所となっているのだ。
「そういえば、この近くに南京農業大学があるって武田先生がおっしゃってたわ」
「ああ、南京農学院ね。この先を突き当たって右に折れて、少し東へ行くとある。高校時代の友達で変わった男がいてね。大学を卒業したあと、ここの3年に編入して勉強して、いまは郷里の岡山大学で教鞭をとっているのがいるよ。ここに在学中、何度か手紙のやりとりをしたことがある。こんな緑の濃い、空気のおいしいところにいたんだな、あいつ」
「ほんとねェ。いいところだわ」
「この辺にしとこうか。真っすぐ行って、左に折れても中山陵に行くけど、さっきの交差点から明孝陵に行って、それからにしよう」
 石像路は数百メートル歩いただけであったが、このまま広い参道が1キロ以上続く。Uターンした二人はやがて右に折れ、明孝陵の方に歩いて行った。途中また石像がある。今度は人である。六百年くらい前に作られた兵士の石人像で、墓を守るために作られたといわれる。
・・・・右に梅花山を見ながら、二人はいつしか明孝陵の入り口に来ていた。明孝陵は明の初代皇帝朱元璋(しゅげんしょう)の墓である。1383年に建立されたものだ。朱元璋のほかに馬皇后や殉死した側室妃、官女など50数名がここに眠っている。北京の明の十三陵より規模は小さいが、当時は周囲32キロにおよんだ大陵墓だった。太平天国の南京占領によってかなりの部分が破壊され、現在は一部しか残っていないが、長さ八百メートルにおよぶ参道が山麓にそって作られ、石獣や石像が並んでいる。
「大殿門から享殿の方に行ってみよう。でもこれは清代のものだそうだよ」
「茅場さん、よく知っているのね。この辺のこと」
「さっき話した友達が南京に下宿していた頃、よく手紙であれこれ詳しく書いてきたのでね。ぼくも興味あって随分その頃文献を読みあさったよ。でも、こうやって目の当たりに見ると、大自然の緑と昔の面影が彷彿とするね」
 茅場は感慨深く、目を細めて言った。
 祭壇の下のトンネルを抜けると墓があった。直径約四百メートルの円形の丘になっている。松や柏が生い茂っている。この辺まで来ると、もう人影はまばらであった。静かな佇まいは、白浜を一層感傷的にした。
「・・・・人生って、一体何なのかしら。栄華をきわめた皇帝も、いまではこうやって土の下で眠っている。・・・・」
 白浜宏美はうっすらと涙さえ浮かべて、独り言のようにつぶやいた。遠く異郷の地にあって、東京での慌ただしい毎日の生活や、故郷の思い出などが一辺に頭のなかで走馬灯のように巡るのだった。
「修さん・・・・」
「なに?」
「・・・・ううん何でもないの」
 茅場は白浜の頬に一筋の涙が光ったのを見た。複雑な気持ちだった。どうしていいか判らなかった。小さな優しい体をぐっと引き寄せた。これが茅場にとってやっとの思いで出来た行為だった。
 
 二人は中山陵にも行った。<革命いまだ成らず>の有名な言葉を残して死んだ、中国民主主義革命の父と言われ、三民主義を唱えた孫文の陵墓である。本人の希望で死後、翌年の1926年に建設が開始され、1929年春に完成し、同6月1日に遺体を北京の碧雲寺から、ここに移して安置した。紫金山中央部の第2峰、茅山の南麓から北へ向かって七百メートルほどの、なだらかな斜面に作られた壮大なスケールを誇る陵墓だ。青い瓦の屋根と白い壁のコントラストが美しい建物が並んでいる。孫文の像が建っている入り口から碑坊、参道、陵門と続き、一番上が浄瑠璃に輝く祭堂、その奥に墓室がある。墓室は球状になっており、中央の墓穴に柩が安置され、柩表面には孫文の永眠像の臥像横たわっている。
 霊谷寺にも行った。歴史は古く、6世紀に南朝の梁の武帝が、今の明孝陵の辺りに建立したものが最初であるが、明代に入って 武14年朱元璋が明孝陵を作るにあたり、寺をこの地に移し、霊谷寺と改名したといわれる。境内には松が繁り、山道が森の中を縦横に縫い、紫金山有数の景勝地となっている。14世紀に建てられた無量殿は、煉瓦をアーチ状に積み重ねて建築された中国建築史上屈指の煉瓦建築で、梁と柱が一本も使われていないことから無梁殿ともいわれる。その奥にある霊谷塔は石の螺旋階段で、二人は9階の展望台まで登った。広量たる樹海が見渡せ、その彼方に南京の町が見えた。
 
・・・二人は夕方、南京大学の寮に戻ってきた。白浜にとっては、何よりも、愛する茅場と二人だけで、1日をゆっくり過ごせたのが嬉しかった。仄かな胸の高鳴りを覚え、<好きよ>、と何度も言いそうになった。<思いっきり抱いて>、と言いそうになったこともある。そのたびに、<いけない、茅場さんには美枝子さんがいる、武田博士のお嬢さんだもの、私なんか>と思いを留め、<博士や茅場さんの研究に私が必要なら、一生懸命尽くそう、それでいいんだ>と自分にいいきかせるのだった。