中国政府および中国科学院の要請で、武田博士ら一行が、ここ南京大学に観測強化の応援に来て、新しい発見は何もなく、早や二ヵ月以上経った。各国の天文観測も同様であった。二ヵ月ちょっと前の、太陽系に異変起こる、の世界的フィーバー振りはもうすっかり冷えきって、マスコミも取り上げなくなり、一般市民も忘れ去ったかのようだった。天文学者でさえ、あれは単なる偶発的な、確率的にきわめて稀な事件として片付けてしまった者も多数いた。日本の太陽系異変対策委員会も、発足以来、一度も召集はされてない。
 この二ヵ月ちょっとの間の収穫といえば、ただし、一般市民には興味のない事であったが、世界各国の著名な天文台で、新しい彗星や、流星群、はぐれた小惑星などを多数発見した事であった。ハワイのマウナ・ケア天文台や米キットピーク国立天文台、オーストラリアのサイディング・スプリング天文台、ソ連のゼレンチュクスカヤ天文台、チリのセロトロロ天文台など大口径の、普段は何億光年という彼方の星雲などを観測する強力な望遠鏡が、一斉に太陽系内を隈無く探し始めたのだから、当然といえば当然かも知れない。
 にも拘らず、冥王星の軌道を狂わせた原因は掴めなかった。多くの天文学者が、大隕石でも落下したのだろう、と片付けるのも、これまた至極当然だった。
 
 ここ紫金山天文台でも、何らの発見もなく、虚しい日々が続いたが、武田博士も茅場も南京大学の図書館に通って勉強する事を怠らなかった。また博士の多変数位相渦理論の応用として惑星の近日点移動の計算も、論文にする予定であったため、二人協力してまとめていた。もちろん白浜宏美もコンピューターでの計算に関しては大いに協力していたが、生活上での貢献も図り知れないものがあった。
 博士と茅場の洗濯物や身の回りの世話である。空港で、あれほど博士は自分の事は自分でやると、たんかを切ってはみたものの、いざ、ここで独身生活をしてみると、白浜の、ぜひやらせて下さい、という熱心な申し出は断り切れず、ついやってもらうようになったのである。
 茅場も同様である。下着を若い未婚の女性に洗ってもらうなど、はじめは恥ずかしいという気持ちが強く、自分でやっていたが、いつの間にか、はにかみながらも手渡すようになっていた。白浜は幸福(しあわせ)であった。日本に帰らなくていい、このままでいい、という気持ちでいっぱいであった。健康を害する事もなく、慎ましい研究生活が続いた。
 
 そんなある日、いつものように、前夜の観測の分析を茅場修、白浜宏美、李鵬陽、趙先雲の4人が、天文台のコンピューター室兼研究室となっている部屋で行なっていた。
 ハイビジョンモニターを食い入るように見ていた茅場が、
「ちょっと待って、もう一度さっきの土星の環の映っているところを出して下さい」
 と、ハイビジョンのバーチカルとホライゾンタルの調整をしながら言った。李は手早くハイビジョンビデオをリワインドして、ジョグを回して、その土星の映っている部分をだした。
「この環の動きがおかしくないですか?」
 と、茅場はモニターから目を離さないで、指差しながら言った。
「そう言えば、若干うねっているようですけど、それは、昨夜私も観測している時に気付いていました。でもそれはモニターの調整が悪くて、画像にジッターが出ているのではないかと思っていましたが」
 と、李が弁解するように言った。観測当番は李であった。
「ジッターではないね。もう一度出して」
 と、茅場は、しつっこく同じ画像を見た。
「ジッターとかモニターの調整不良だと、この部分だけがこういう揺れ方をしないです。走査線全部だから、1フィールドまたは1フレーム全部になるはずです。この映像はどこかおかしい。・・・・白浜君、地球の大気の揺らぎ補正をして」
「はい、分かりました。入れます」
 大気の揺らぎによって、像全体がカゲロウのように揺れるのをコンピューターのデジタル処理で取ってしまうのだ。かなり処理時間がかかる。
「白浜君、とりあえず百五十フレームくらいでいいよ」
 いらいらした茅場が五秒間に指定した。 ・・・・安定した映像になり、さっきより一層、環の動きが明瞭になった。明らかに環が異常な揺れをしている。
「ここを撮影中、何かがそばを通過したりしませんでしたか?」
「絶対ありません。見逃さないように、いつも神経を尖らせて観測してますから」
 と、李はさらに強い弁解する調子で言った。
「いや、別にあなたを責めているんじゃないです。・・・・」
 茅場はうっかり強い調子で李に当たった事を反省した。
 無言のまま、4人は何度も何度も同じ映像を繰り返し見た。
「まさか、土星の軌道まで変化したんじゃないでしょうね。計算してみます」
 と、思い立ったように、白浜がコンピューターを忙しく操作し始めた。この二、三日分のデータと一緒に、特に精密に軌道の割り出しを行なった。その間、茅場はハイビジョンモニターや、デジタル変換装置に異常はないか、入念にチェックをした。クロック周波数の乱れで局部的に映像が乱れて、揺れているのかも知れないと思ったからだ。しかし、異常はなかった。李も自分が観測していた時の結果であることから、責任を感じて、CCD撮像装置からその冷却装置にいたるまで、もう一度点検を行なった。観測前には必ず行なう事だけに、そのミスによるS/N劣化から画像に影響が出たとあっては、科学者として名折れにもなりかねない。趙も李に加勢し、協力してミスがなかったかをチェックしていった。しかし、やはり観測装置側には異常はなかった。土星にも異変が生じたのであろうか。全員に緊張がみなぎった。
「土星の軌道には異常はないようだわ。自転周期も十時間十四分で、変わりないし」
 と、白浜が結果の出たディスプレーを見て言った。
「自転軸の傾きは?」
 と、茅場が聞いた。
 しばらく、コンピューターを操作していたが、まもなく、
「二十八・一度で変化はありません。・・・・でも環の大きさが確定できません。この揺らぎのせいです」
 と、白浜がキーボードから手を離しながら言った。
 
 土星の環は、曾ての衛星の一つが、ロシュの限界によって出来たものである。環の最外縁が土星半径の2・3倍のところにあることが、その決定的な証拠である。ロシュの限界というのは、衛星が主星の半径の2・46倍以内に近付くと、主星の強い潮汐力で、衛星がバラバラに引きちぎれてしまう事である。最近、微惑星が衛星に衝突して環になったのではないかという説を唱えている学者がいるが、そういう偶発的な出来事であると、このようなきれいな赤道面を回る環にはならない。衝突によって粉砕された破片はいろんな方向に飛び散るだろうから、地球の周りを縦横無尽に回っている人工衛星のように、いろんな向きにランダムに回る“破片衛星”になるからだ。
 
「衛星だ!。衛星を観測しよう」
 と、趙が大きな声で叫んだ。
「そうだ。今夜は徹底的に土星とその周辺をマークして、特にレアやタイタンの軌道に変化がないか、調べよう」
 と、茅場が久しぶりに興奮して答えた。
「それにしても、こいつは面白くなった。もし、冥王星に関与した謎の天体が、たったの2ヵ月ちょっとで土星にまで到達したとなると、凄いスピードだね。・・・・白浜君、ちょっと計算してみてくれる?」
「はい、待ってて」
 可愛い声で答えた。
「見えないから始末悪いね。見えればすぐ軌道計算できるから、今後どっちの方に行くか分かるんだけど」
 と、李がくやしそうにいった。
 その時、南京大学の孫万歌教授の部屋にいた武田博士から電話がきた。茅場が出た。
「もしもし、茅場です」
「おお、茅場君。いま東京から、太陽系異変対策委員の東出君から電話があったのだが、ハワイのM天文台がさっき発表したそうだが、土星の第7衛星のハイペリオンの近くを、薄暗くはっきりしない天体が猛スピードで通過したそうだ。大きさは第6衛星のタイタンくらいだというから、水星と同じ大きさなんだ。そんな大きな天体なのによく見えなかったそうだ。その後、すぐ見えなくなって追跡は出来なかったという事だ。そちらでは何か変わった事はなかったかね」
「やっぱりそうですか」
 茅場は、電話器を持ったまま白浜や李、趙の方を向いて大きくうなずきながら続けた。
「大ありなんですよ。土星の環が少しうねって、乱れているのが観測されたんです。わたしたちも発表しますか?」
「ああ、一応発表しよう」
「わかりました。経過をまとめて、出来るだけ早めに発表するよう努力します。発表は先生の方からお願いします」
「頼む。私もすぐそちらに行く」
 全員に緊張がみなぎった。背筋がぞくぞくっとした。観測してきた甲斐があった。いよいよ本当に謎の天体は本物になってきた、と互いに顔を見合わせて、頷き合った。李など顔が引きつっているようでもあった。
「計算結果が出ました。・・・・あれから七十日ですね。そうすると・・・・約、毎時三百万キロです」
「ひえー」
 李が、またすっとんきょうな声を出した。
「秒速約八百キロだね」
 と、茅場は落ち着いて言った。
「これじゃ、今夜土星を観測しようと言ったって、もうとんでもないところまで行ってるよ。わかんないよ」
 と、李が言ったが、すぐ白浜が、
「そうじゃないわ。速度が分かったのだから、土星を中心に付近を探してみるのよ」
 と元気よく言った。
「そうだね。・・・・黒い物体のようで、光をあまり反射しないようだから、よほど注意深く観測しないと見逃すかも知れない。十分計算をして、的を絞ろう」
 と、茅場は座っている白浜の肩へ手をやりながら言った。
 
 その日の午後から、土星が見え始める夜8時頃まで、大変な忙しさであった。茅場と武田博士は発表のための、今までの経過と結果をまとめ、大学に戻った。白浜は謎の天体の速度から、現時点ではどの辺まで移動しているかの計算をして、星座の中に枠を入れる。当然、この枠は時間をともにだんだん大きくなる。コンピューターのディスプレー上にそれがはっきり出る。李と趙はその枠の中に、望遠鏡と架台が自動的に移動するよう制御用コンピューターにセットするなど、文字どおり食事をする暇もなく動き回った。
 
 途中で、白浜はあまりの集中力と気迫、疲れなどで、めまいがして、どさっとデスク上に俯せに倒れたのだったが、ドームの方に行っていた李と趙は、それに気付かなかった。二人が部屋に戻って来た時は、もう白浜は必死にキーボードに向かっていた。白浜宏美はそういう女性であった。一言も苦しい泣き言など洩らした事もなく、いつも自分が犠牲になる精神の持ち主であった。遅い夕食を取った時、あまり食事が進まない白浜を見て、李と趙が心配したが、何でもないと、いつもの笑顔を見せて、今日こそ謎の天体を発見しようね、とお互いを励まし合うのだった。
 
 午後八時過ぎ、土星が見え始め、観測を開始した頃、武田と茅場が一緒に天文台に戻ってきた。南京大学にひっきりなしに、新聞社やテレビ局、雑誌などマスコミの取材が入り、その応対に追われ、さっきまで食事をする暇もなかった、と博士はぶつぶつ言いながら書類を整理した。茅場は、
「土星周辺での異常の発見は、ハワイのM天文台と、ここ紫金山天文台だけであることがマスコミ陣の話から分かりました。いま全世界に私たちの発見が報道されているよ。M天文台では、ハワイ、カナダ、フランス共同開発の三百五十八センチの反射望遠鏡で、凄い倍率でタイタンやハイペリオンを観測していたため、異常物体の速度が早すぎて視界から消えたという事です。私たちの望遠鏡は小さいけど、なにしろCCDによるデジタル映像の超微細な信号処理が異常を的確に捕らえていたということだね」
 と、皆に説明した。
「ということになると、今夜は、また全世界の天文台という天文台が、一斉に土星方向に向くね」
 と、趙が望遠鏡を調整しながら言った。
「土星自体の軌道変化はなかったことを、すでに私たちが発表したので、たぶん衛星の軌道に異常が生じたかどうかの確認の観測が主になるだろうね」
 茅場が付け加えた。
「物凄い変化が起きたことは間違いないだろうね・・」
 と、博士が言った時、趙が突然、
「光った!」
 と、大声で叫んだので、一斉にみんなが、趙の方を見た。いや次の瞬間にはモニターに目が移っていた。
「タイタンがチカッと光りました!」
 茅場と白浜は殆ど同時にデジタルVTRが回っているかどうかの確認に、部屋に戻ろうとした。お互いの目で合図し合って、茅場がすっ飛んで行った。
 博士は夕方、取材陣の応対の合間に、東京の惑星研究室のメンバーに、野上観測所で、土星の周辺を丹念に調べるよう指示していたので、今の趙の叫び声で、すぐ電話器を取った。
「もしもし、・・おお関口君、君がいたのか。どうだ、観測しているか。・・タイタンが光った?・・よし、それでいい。観測を続けてくれ。・・いや、そうじゃない。謎の天体が衝突したのじゃない。・・今のままでいい。土星付近を丹念に調べてくれ。それじゃ」
 見渡したが、茅場がいない。
「茅場さんは下にVTRのチェックに行きました」
 と白浜がすぐ、それと悟って言った。
「そうか。・・・・いま野上天文台に電話したら、同じくタイタンが光ったそうだ。何が原因か、突き止めてみよう。私の考えでは多分衛星同志の衝突ではないかと思う。・・・・恐れていた事になった」
 と、博士は白浜から、モニターの方へ目を移しながら言った。
 しばらくして茅場が、OK、OKと言いながら戻ってきた。すぐ白浜が傍に寄って小声で言った。
「野上でも、同じようにタイタンが光ったのを見たそうよ。先生は衛星同志の衝突ではないかと、おっしゃってるわ」
「それは言えるね。冥王星の軌道まで狂わせた奴だから、衛星などひと堪りもないよ。がたがたになったんじゃないかな。
・・・・それはいいにしても、でも、こっちへ向かって来ている事だよ。その方が心配だよ」
 大きくうなずいて白浜は茅場と博士を交互に見た。博士は腕組みをしたまま、じっとモニターを見つめている。やや顔が引きつっているようでもあった。
・・茅場が、趙に向かって言った。
「いま見える衛星は何と何かな」
「タイタンは、そのまま見えます。あと、レアです。でもハイペリオンが見えません。本当なら、いま現在見えるはずですが・・・・ひょっとしてハイペリオンが!」
「そうかも知れない。・・・・もういい。この確認は、他の天文台に任せよう。多分あちこちで同時に見ているはずだから、今頃やっきになって観測しているよ。・・・・それより私たちは、謎の天体の行方を追う方が先決だ」
 と、博士は趙と茅場に言った。
「白浜さんが計算してくれた範囲を、徹底的に調べようよ」
 李が架台を制御するコンピューターの方に行きながら、趙に向かって言った。
「先生、七十日間で、冥王星から土星まで来た事と、冥王星の軌道の反対方向から侵入した事から、大体の通過した道は分かりますので、現在どの辺にいるかの計算をして、星座の中に枠圏を作りました。見てくださいませんか」
 と、白浜は下のコンピューター室に行こうとしながら言った。三人は李と趙の二人をドームに残して下りて行った。
 博士はしばらく色々チェックをしていたが、
「いいね、よくこれだけのプログラムが短時間のうちに出来たものだ。さすがだよ。白浜君」
 博士に誉められて、嬉しそうに茅場の方も見た。茅場も、昼からここを離れていたので一人で、これだけのプログラムを作った白浜に、今更ながら感心した。ただ、茅場にはちょっと気になる事があった。それは謎の天体は小さいながら、非常に質量の大きい物体のようであるため、土星との相互引力によるスイングバイもきわめて大きいのではないか、という事であった。この白浜の作った予知圏は、そのスイングバイの影響が全く考慮されてなかった。博士も気付いていない様子である。もちろん正確なスイングバイを計算するには、謎の物体の質量が分からないといけないから、この場合不可能であることは事実であるが、それにしても質量を未知パラメーターとして入力し、予知圏をもうすこし拡大した方がいいのではないか、というのが茅場の頭の中で回転したプログラムであった。折角苦労して作っただろうに、ケチを付けることになるから、言うのをやめよう、いや、いまぼく達は学術調査をしているんだ、言うべきだ、と、今度は頭の中で困惑がぐるぐる回ったが、結局、茅場は言うのをやめた。それは、これだけ立派なプログラムがあれば、今度謎の物体が見つかれば、その時点で直ちにスイングバイの補正項を入れれば質量は立ち所に計算できるからだった。
「いいね。これに沿って観測しよう。この圏内で、もし見つからなかったら、こちらの方向に架台を制御するよう枠圏を拡げてみてね」
 と、自分の頭の中で予想した方向と大きさを、ディスプレーを示しながら、それとなくやさしく言っておいた。
白浜は、<修さん、何を言いたいんだろう>、と一瞬気になったが、それ以上深く考えなかった。疲れていたせいもある。皆の前では元気そうに振舞ってはいるが、本当はもうくたくたであった。
・・・念入りな観測が始まった。今までの雲を掴むような観測と違って、今度こそ的を絞った観測である。見つかれば大発見である。それこそ世紀の大発見であるため、みんなの目の色が違っていた。