寮から紫金山天文台までは、あまり上等でないワゴン車で、ゆっくりと1時間ほどで行った。四百メートルほどのあまり高くない山であるが、公害のない澄んだ空気で、シーイングの良好な場所である。紫金山には五つほどの天文台があるが、博物館になっているものもある。古代からの天文観測機器、たとえば漢代に張衡という人が発明した渾天儀や地平経緯儀、また珍しい水時計、日時計なども展示されている。
 これらの天文台の中で、最も設備の整った中国科学院所属の天京天文台という六十センチ反射望遠鏡のある天文台が、一行の観測所になるところである。車を降りた三人は、まず白浜が驚嘆の声を上げた。
「まあ、一面に緑、緑。山というより樹海の中ね。それなのに光が妙に鋭いわ。こんな光は日本にはどこ行ってもないみたい」
「空気が澄んでいるんだね。味も違うみたいだ。樹海のようだけど、これは全部が自然のものではなく、昔はこの山には何十という仏教寺院があって、人の手で植えられた木々も多いのだそうだよ。あの直線的に並んでいる樹木がそうだよ」
 と、茅場は白浜の傍に近寄って、指差しながら言った。
「玄武湖公園が見える。それに城壁も」
 と、博士もここは初めてだったので、きょろきょろ見渡しながら言った。
「珍しいですか。紫金山は大きく三つの峰で出来ているのですが、主峰はあれで、海抜四百四十八メートルあります。ここは第三峰で、太平天国が築城した天保城があります。いつか行ってご覧になるといいです」
 と、趙が博士に教えていた。
「それでは、みなさんコンピューター室とドームにご案内します」
 と、大きな声で李が車のドアーを開けて、荷物を下ろしながら言った。急いで三人は車に戻って、それぞれ自分の荷物を持ち、先導する趙の後をついて行った。
 コンピューター室といっても、要するに研究室であり、二十畳ほどの広さの、こじんまりした清潔な部屋である。中国製のコンピューターが二台並んでいた。一台は望遠鏡の架台を制御するもので、もう一台がデータ計算用であるという。エヤコンも入っていて快適である。机も三つ、三人のものだと用意していた。部屋の中央には一昨日、日本から届いたという観測用機器が梱包されたそのままで置かれてあった。それらを置く机も既に用意されていて、いつでも梱包を開ければレイアウトできる状態になっている。
「梱包を開ける前に、ドームをご案内します」
 と、趙が言って、今の入り口とは反対側の方のドアーから出て行き、すぐ五段くらいの石段を上がってドームの中に案内した。東都大学惑星研究室の野上天文台より一回り小さい。望遠鏡も六十センチ反射型で、いつも使っている九十一センチ型から見ると、かなり小さい。五十センチシュミット型もある。これは同じである。ドーム内はきちっと整備されており、当然のことながら、塵一つ無い清潔さである。李がドームを経と緯方向に動かしてみてくれたが、非常に静かで滑らかな動きである。もちろんコンピューターによって赤道儀と一緒に動くが、振動によって映像がブレないように土台は非常に強固に作られている。これなら写真撮影もシャープに取れる。
「このプログラムは、このままの方がいいわ。もし変更する場合のことを考えてフロッピーは持ってきたけど、これは変えない」と、白浜宏美は小声で茅場修に言った。
「そうだね。CCDからの映像信号を分析、計算するには正確な時刻だけインプットすればいいようにしてあるよね。それでいこう」と、茅場も相づちを打った。博士もそう考えていたところで、二人がやろうとしていることが意気投合しているのを聞いて、満足であった。
「じゃ、部屋に戻りましょうか」と、ドームを閉めながら李が言った。
「私は、いま望遠鏡に設置している写真撮影用の器材を取り外しますので、その間に梱包を開けたり、器材の調整をして下さい」と、趙が言った。
・・・それからが大変であった。とにかくハイビジョンモニターにしろ、コンピューターにしろ、重い。宿直で泊まっていた老人がいたが、力仕事を頼むことはできなかった。結局男三人がかりである。段ボールから器材を取出し、机の上に置く、段ボールを片付けて掃除をする、小物も壊れてないか点検しながらテーブルに並べてみる。趙の方も一人では外せない時は、李を応援に呼ぶし、李は汗びっしょりで動き回っていた。これだけでほぼ午前中が終わってしまった。しかし、部屋はきれいに片付き、あとはケーブルの接続と通電だけにまでなった。
「ケーブルの接続などは午後にしましょう。一休みしなくっちゃ。器材の調整どころではないわァ」と、李は汗を拭きながら、目をくりくりさせて言った。
「そうですね。夜までにはたっぷり時間はあるし、午後調整ということにしましょう」と、趙も賛成した。十二時前であった。
 昼食は、やはり寮に帰ってとることになっていた。
 
 午後は孫万歌教授も見えた。予定通りケーブルの接続から始まった。専用のマルチピンプラグケーブルがかなりの数にのぼる。高感度電子冷却CCDカメラからの映像信号は、いったん専用のインターフェイスユニットにインプットし、デジタル化して、コンピューターに記録する。モニターにはインターフェイスユニットから並列に出力する。これらの接続はもちろん茅場と白浜の二人で行なった。趙も李も初めて見る器材であるため判らない。しかし、熱心に信号の流れをノートに書き付けていた。接続が終わった時は、立派なブロックダイヤグラムが書かれていて、もう茅場も白浜も、いなくても接続出来るほどになっていた。何の観測機器から、どういう信号が、何にインプットされ、どういう信号処理をされて、次の機器にはどういう形でインプットされるか、というフローチャートが見事に書き付けられている。さすがは選ばれた科学者である。
 各機器にスライダックを付けて、正確に百ボルトに電圧調整。いよいよ通電チェックである。
「白浜君、きみはコンピューターの作動をチェックしてくれないか。ぼくはドームに行って、電子冷却装置のチェックをするから。CCDカメラにも電源は入れるけど、インターフェイスユニットには電源は入れないから、信号はそちらには行かない。チェックプログラムでやってくれ給え」
「はい、わかりました」
 二人は、それぞれの持ち場で最高度の技術を発揮する時がきた。博士は自分の研究用ノートに見入って、口出しは一切しない。李と趙はただ見守るだけであるが、何をしているのかを一部始終メモを取っている。
 茅場はまず電子冷却装置のチェックである。時間がかかる。0度、マイナス五度、マイナス十度とディスプレーが示す。マイナス十五度付近からの低下の速度が鈍ってきた。リニアリティが悪い。アジャスト調整をやり直す。今度はいい。しかし、マイナス四十度から低下しなくなった。このCCDはマイナス六十度くらいで使用すると最もS/Nが良くなるものである。したがってマイナス四十度ではだめである。茅場はペルチエ電流を増やすことをやってみた。東京でチェックした時も、多めの電流の方が調子は良かったのを思い出したからだ。マイナス五十度、下がり始めた。ミニマム調整ボリウムをマイナス六十度にセット。ぴたりマイナス六十度で止まった。OKだ。
 その間、白浜はコンピューターの作動チェックをした。チェック用プロをランさせれば信号処理や、その計算が正しく行なわれるかどうかが判るようになっている。このプログラム自体も白浜と茅場が作ったものである。当然、今は映像信号は来ていないから、不能のアラーム表示をするが、それをジャンプすれば、軌道計算をするサブルーチンに行く。これらはすべて正しく動作していることが確認できた。
 趙が主として茅場について、李が白浜についてメモを取っていたが、李の方はさっぱり何がなんだか判らない様子だった。それもその筈で、コンピューターというのは、そのプログラムを作った人でないと、どういうキー操作をしていいかは判らないものだ。いわゆる“取扱説明書”がなくては、猫に小判である。このチェックプロには、そんな説明書はない。すべて白浜と茅場の頭の中にあるからである。
 ドームの方から茅場が戻ってきて言った。
「白浜くん、どうだね。コンピューターの方は」
「はい。順調に作動するようです。あとは実際にデータを入力して、ランさせてみるだけです。先日までのデータをフロッピーに記録してありますから、これを動かしてみましょうか」
「そうだね。孫先生やお二人にも見せてあげるといいね」
 と、モニターにも電源を入れながら言った。
 白浜宏美はデータフロッピーをセットし、キーボードを素早い手つきでオペレートし始めると、孫教授と李、趙の二人が身を乗り出してきた。武田博士もちょっと心配そうに、一歩うしろから見守った。
 ハイビジョンモニターと、もう一台のNTSCモニターにもくっきりと冥王星が写し出された。くっきりと、といっても点をほどよく丸くしたくらいにしか写らないが、まわりの恒星とは色が違うので区別できる。フレームを変えると冥王星の位置が変わってくる。この変化を恒星の位置から割り出し、地球時間つまり地球の座標をも入れて、冥王星の軌道を計算するわけである。
「軌道計算をしますから」と、白浜はキーボードをかなり複雑に操作していたが、ランさせると、手を休め、茅場を見上げてにこっと頬笑んだ。64ビット/800MHzマシンとはいえ、2分はかかる。ディスプレーに、日本時間であるが、何日の何時の時点の軌道を表示するのかをインプットせよと、待ちが出た。白浜は博士と茅場を仰ぐように見たが、指示を待つ前に、今日の二十二時、つまり此処では二十一時を入力した。再び計算を始めた。約三十秒後、ディスプレーに太陽を中心に地球と冥王星の軌道と現在位置がグラフィック表示された。そしてモニターには、その時刻の冥王星と主要な恒星の位置が示された。
「おー、すばらしい!」
「すごい!」
 李と趙がほとんど同時に驚嘆の声を上げた。
「冥王星が異常を示す前の軌道も、参考までに表示させてご覧」と、武田博士が後の方から言った。
「はい。この上に緑色で示します」
 白浜はまたキーボードから何やらインプットした。今度は時間がかかることなく、すぐ緑色の曲線がすーっと描かれ、現在の軌道と対比して判りやすく表示された。
「素晴らしいの一言です」
 と、孫万歌教授も、思わず傍にいた茅場の手を取り握手しながら言った。
「あのモニターに写っているのは、今夜九時の冥王星の位置ですね」
 と、趙が茅場に尋ねた。
「ええ、そうなんですけど、あれは日本での、しかも私たちの観測所からの位置ですから此処の緯度と経度をインプットして、パラメーターを変更しないと、若干誤差が出ます。・・白浜君、今の話聞いてた?変更するのを忘れないでね」
「はい。簡単ですから、これからします」
 と白浜はディスプレーを操作し、計算プログラムを画面上に呼び出した。物凄い複雑なプログラムである。昨日も会席の折りに話が出たように、ベーシックなどコンパイラーではなく、アセンブラー言語やマシンワードを使っているので、かなりコンピューターには詳しい李や趙でも、さっぱり判らない。白浜はその中から変更する部分をスクロールして読出した。パラメーターをいくらにすればいいのか正確な数字を覚えていなかったので、茅場に聞こうと後を振り向いたが、博士がさっと、此処の緯度と経度を書いた自分の研究用ノートを差出し、白浜に見せた。
「あ、すみません」
 と、白浜は恐縮して、そのノートを見ながら、東経百十九度、北緯三十二度をインプットした。もう一つは時刻である。日本時間よりマイナス1であるのでこれも訂正した。日本を出る時は、架台を制御する赤道儀の方のプログラムも持ってきたが、変えないことにしたので、結局、変更する部分は以上である。重要なプログラムであるため、他にCD−Rを用意していたが、これにも変更後のプログラムを記録しておいた。
「あとは夜待ちですね。今日は天気も良いし、シーイングは良い筈です。楽しみです」
 と、趙が言った。
「そうしましょう。今日は朝からたいへんだったでしょう。観測に入ったら、まだまだ色々なことを教えていただくこともあるでしょうから、今夜は遅くなるかも知れません。夕方まで仮眠をしておくことです。お願いします」
 と、孫万歌教授が言った。
 茅場も武田博士も、CCDカメラから、インターフェイスユニットへの信号など、すべてがうまく行くかどうか、まだ心配であったが、あとは実際に望遠鏡とのコンビネートで決まるものであるため、あとは今夜ということで、調整は終わった。