武田美枝子は間宮弁護士事務所ではもはや、なくてはならない存在となっていった。克彦だけでなく父親の法廷での素稿まで書けるほどに成長した。克彦が<司法書士を取得し、弁護士の資格を取ってはどうか>と誘ったこともある。<何年もかかるだろうがやれば出来る>と勧めた。しかし美枝子は応じなかった。いずれは別れなければならない運命を背負っていると思っていたからだ。克彦さんに縁談話が出れば、その時点で自分は身を引かなければならない。それまで一生懸命にできる限りの貢献をする、それでいいと自分に言い聞かせていた。
 1年、そして2年と過ぎて美枝子もすでに25歳になっている。
 
 ある日、克彦が
「今度の日曜日ウチに来てくれない?」
 と、やや普段とは異なる様子で誘った。この2年間に何度か行ったことはあるが、いつもは<遊びに来ない?>だったのが、<来てくれない?>であるのが気になった。仕事柄、どんな言葉にも一つ一つの違った意味があることを美枝子は、この2年間に学んできた。
「はい、よろしいですが・・・・・」
「よかった、母も楽しみにしているんだ。もうかれこれ半年は母に会ってないよね」
「そうね、お正月にお邪魔しましたから半年ですね」
「朝11時頃、自由が丘から電話くれれば正面口に車で迎えに行くよ。話が終わったらお昼を青山の思いでのレストランで父、母とも4人で一緒に食事をしよう。あのレストラン、初デートだったね・・・・あれから2年か・・・・」
 美枝子は克彦の様子が何かおかしい、普段とは異なることを敏感に感じ取った。<話がおわったら>と言ったのも気になる。
しかし、どんな話でもいい、自分には覚悟は出来ていると気を引き締めた。
 
 日曜日、朝、車の克彦が迎えにきた。あの豪邸まで5分もあれば行く。今日は克彦自らがリモコンで門を開けた。右に入って車庫に入った。父親の豪華な自家用車もある。
 すぐにお手伝いさんが玄関に迎えに出てきた。
「お待ちしていました。どうぞ」
 そう言って、入って右側の応接室に案内された。18畳はある。立派なソファーとテーブル、サイドボードの隣にはグラスボード、何号の大きさか、立派な絵画がひときわ目に映る。いつもと変わらない清潔な部屋だ。空調も快適な温度と湿度に保たれていた。
「どうぞ、美枝子さん、お紅茶がお好きでしたね」
「あ、お構いなく」
 お手伝いさんは入れた紅茶をテーブルの上に置いて出て行った。部屋には父親、克彦、母親の3人がいる。
 母親が静かに口を開いた。
「東京も梅雨に入ったそうね。でもきょうは雨もなく、よかったですね」
「はい」
 美枝子は母親もいつもとは違うよそよそしい口調に気が付いたが、ニコッとして身体全体を前屈みに返事をした。
「美枝子さんねえェ。きょうは克彦がお話があるってお呼びしたの。・・・・その前にお父様とお母様、それに、お兄様がいらっしゃるんですね。お歳など聞かせてくださいません?私たち、まだ知りませんのよ。<知らない>では世間様に申し訳が立ちませんので」
 美枝子は<ついに別れの日がきた>と思った。すべてをさらけ出して話すしかない。3年前同様の会話が内田由美の家であったのを思い出した。その時は恥ずかしくて言えなかった。
 3年間の楽しい日々が走馬灯のように頭の中をよぎる。
 
「あ、はい。父は55歳です。母は51歳、・・・・兄は私より3歳上ですので28歳です。3人で山形県の片田舎で農業をやっています。季節野菜を農協に託して細々と暮らしております。
 兄は高校1年のとき、<高校を卒業したら東京に出て勉強して農機具を製造している会社に就職して、農機具の開発をやるんだ>と意気込んでいました。でも3年生の2学期くらいに、<ぼくは東京には行かない>って言い出しました」
「どうしてですか?」
母親が優しく問いかけた。
「<美枝子、おまえが東京に出て勉強しろ>って、強く言うようになったのです。父も母も<美枝子はいずれはこの家を出てお嫁にいかなければいけない、聡史がこの家を継ぐ>というのです。聡史(さとし)というのが兄の名前です。私はまだ中学3年生でしたから、将来のことはまだ決めてなかったのですが、学費のことは心配でした。家が貧乏であることは百も承知だったので、<東京に出て大学に行くとなれば、学費など大変よ>と言いましたら、<そんな事は心配するな。おまえは受験勉強して東京の大学に行き、教養を身につけることだけを考えればいいのだ>と怒られました。
 高校3年間も同じでした。ますます3人は仕事に精を出し、私の学費を貯金しているのが子供ながら分かったのです。私は家の手伝いをしながら一生懸命勉強して、目的の大学に受かりました。大学中も家庭教師などアルバイトをしながら学費や生活費に当てていました。
 こうして内田由美ちゃんや克彦さんとお知り合いになれたのです。私の運命は生まれたときから決まっていたかのように牽引され、いまここに座っているのが夢のようです」
 美枝子は昔を思い出すかのように、時には涙目で、また時には生き生きとした目線で語った。
「そうだったの。ご家族みんな苦労なさったのね・・・・・でももう大丈夫よ、これからご家族3人にご恩返ししましょうね」
「・・・・・・」
 美枝子は母親の言っている意味がよく分からなかった。
 
 克彦が婚約指輪の入った高級なケースを開けて、美枝子の方に差し出した。何カラットだろうか、眩いばかりの輝きを放つダイヤモンドだ。
「美枝子さん、ぼくと結婚してください」
 美枝子は一瞬、頭の中が真っ白になった。
「・・・・・・・」
「きっと幸せな家庭にします。いや一緒に家庭をつくろう」
「克彦さん・・・・・」
 ワッと美枝子は泣き出した。
「克彦さん・・・・・」
 喉が震えて<克彦さん>としか声が出ない。
「いやなの?美枝子さん」
 母親が優しく覗くように言った。
「そんな!そんなことないです!」
 叫び声にも似た泣き声だった。
「泣くことないのよ。いまのがお返事なのね」
 <ん>と、うなずいたのが精いっぱいだった。克彦の座っているところに駆け寄り、克彦を抱きしめた。
「美枝子ちゃん!」
 美枝子は克彦に抱き付いたまま泣きながら離さなかった。
 
 故郷の父母、兄の喜びは想像を絶するものがあった。結納金は500万円という大金である。
 結婚式は秋たけなわ10月中旬となった。
 式そのものは間宮夫婦と同じ神前結婚であった。媒酌人いわゆる仲人は弁護士会の大御所・大江健三が引き受けてくれた。
 披露宴は都内の有名ホテルの大広間である。
 来賓は弁護士の友人10名以上、政界からも議員が3名、克彦の大学時代の友人10名ほど、美枝子も大学時代の友人や元会社の上司、友人など10名ほど、親戚は新郎・新婦合わせて20名。こうして人数的には50名程度であるが、著名人の座る場所の順番や祝辞を誰と誰にするかなどはたいへん苦慮する。
 結局著名人は全員話して貰うことにしたが、話の中心は美枝子に集中し、その美貌に誰もが惚れ惚れしたものだった。
 大の親友である内田伸夫にも2分でいいから、1分でもいいから話してくれと頼んでいた。<おめでとう>の言葉はあったが、なりそめについては語らなかった。
 各席を回るキャンドルサービスというのがある。写真も撮られる時間だ。しかしどの席に行っても美枝子は作り笑顔しかできなかった。
 盛大な披露宴もお開きとなった。・・・・・内田伸夫の隣は空席のままだった。
 
 
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