出勤は毎日一番で、机の上の拭き掃除から、床の掃除、給湯室の準備など雑用はすべて終わった頃、3人の出勤となっていた。このビルの他の事務所や貸し会議室などの清掃やゴミ捨ては、清掃会社に依頼して、専門の業者がやっている。
 しかし、ここ弁護士事務所では機密事項の多い書類が山ほどあるし、どんな些細な事件書類でも捨てるものは、細かい粒子状に裁断する特別なシュレッダーで行う。そのため清掃業者に依頼することは一切ない。美枝子の当然の仕事である。
 美枝子にとって、こんな事は何の苦でもなかった。子供の頃から高校卒業するまで親の手伝いをしてきた。大根を抜き、ニンジンを抜き、またほうれん草を冷たい川の水で洗い、季節野菜をリヤカーに乗せて農協まで持っていった。小学生の頃、朝早く起きて手伝いをしたあと、学校に行くこともあった。あの頃を思い出せば現在の自分は天国にいるようなものだった。
 
 仕事の内容も長谷に教わりながらやっているが、覚えは早かった。<もう一人前よ>と長谷恵子に褒められるようにもなった。
 
 二ヶ月、三ヶ月経ったある日、大変な事件が舞い込んできた。
間宮達彦の知人でもある国崎稔という人の奥方が血相を変えて事務所に駆け込んできて、<助けてください!>と涙ながらにすがってきたのだ。
 事務所の4人全員が応接室で話を聞いた。<主人が箱根の警察署に留置されている!>というのだ。
「奥さん、落ち着いてください。まず、なぜ箱根の警察署なのか、そこまでを詳しく話してください」
 おろおろするばかりで頭の中が整理出来てないのを落ち着かせるように間宮が誘導した。
話の内容をまとめると、こうだった。
「何十年ぶりかで小学校6年生の時の同窓会をやることになった」、「場所は箱根の山の中の温泉宿”箱根自慢”であること」、「参加者は国崎を入れて10人であり、この旅館は10人でほぼいっぱい、昨日は貸し切り状態でほかに客はいなかったこと」、「宴会も終わって、みんな寝たが、23時頃国崎は寝付きが悪く、もう一回温泉風呂に行った」、「そこで湯の中に長井祐太朗が死体となって浮かんでいた」、「第一発見者である国崎が警察に連行され、取調中である」
 ということである。現在朝11時である。
 間宮はすぐに克彦に指示を出した。
「克彦、当該警察署を調べて電話して、次の三点を聞いてくれ。一つは死体の状況をもう少し詳しく聞くこと、二つ目は被害者の仏さんは今どこに安置してあるのか、三つ目はあとの8人は現在どこにいるのかだ」
 克彦が<はい>と言って応接室から出て、10分以上警察の担当刑事と話をし、戻ってきた。
「死体には後頭部がへこむような打った跡があり、現在殺人事件か事故かの両面から捜査をしているようです。仏さんは警察署内の霊安室、8人は<その時間は寝ていた>という証言から、すでに返したということです。電話で対応してくれた担当の刑事さんは野上警部補ということです」
「わかった、すぐにもう一回、その刑事さんに言ってくれ。司法解剖の必要があるので遺族にそのことを伝えるようにお願いしてくれ」
「はい、わかりました」
 克彦はすぐに、さっきの野上刑事に連絡した。やがて戻ってきて、<司法解剖するように手続きをしている>とのことだった。
 また、すぐに克彦に指示を出した。
「司法解剖の結果がわかるのはいつ頃になるか、聞いてくれ」
 すぐに聞いて戻ってきた。<今日中には分かる>とのことだった。
 美枝子は、なぜ初めから先生ご自身が警察に電話しないで、克彦さんに指示を出すのか分かった。それは何事も経験だということ。計3回克彦さんは電話したが、先生ご自身ならば一度で済んでいると思う。親子の愛情を垣間見たひとコマだった。
 克彦にも父の思っていることはすぐに分かった。肺や胃のなかに温泉の湯があれば、“事故” の可能性もある。しかし温泉の湯がなければ、明らかに殺されてから浴槽に放り込まれた証拠で “殺人” である。だから司法解剖は必須である。警察も最近は初動捜査の迅速性が強く求められているので、やることは早い。
 
「奥さん、いずれにしろ、私が身元引受人になり、国崎さんを釈放させます。安心してください。私どもはあした箱根に行きますが、奥さんは自宅にいてください。なるべく外には出ないようにしてください。もし万一マスコミが訪れたら、私の名前を出して構いません。<すべて間宮弁護士に任せていますので>、と言ってインターホンは切ってください」
 力強い言い方で奥方を落ち着かせた。
美枝子は先生がこんな鋭い目になったのは初めて見た。いつもの優しい目とは打って変わっていた。また<国崎さん>と、
<さん>付けで言ったので、国崎という人は先生より年上の知り合いだろうと思った。克彦も同様だった。てきぱきと指示を出す父に改めて尊敬の念を持った。
「あした三人で現地に行こう。最初警察署だ。それから担当刑事さんと温泉宿の現場に行く。警察署に戻って詳しい話をする。そういう順番だ。頭に入れておきなさい。長谷さんには留守番を頼むがよろしいかな」
「もちろんです」
「留守中、依頼者があってもすべて断ってください」
「はい、承知しました」
 
 その夜のテレビのニュースで、この件が報道された。第一発見者の国崎稔の名前も出てしまった。マスコミの取材の早さに驚く。
 美枝子はノートパソコンに一字一句国崎夫人の説明を記録していたが、そのPCを明日使うかどうかは分からないが、そのバッテリーの充電を忘れなかった。美枝子のキーボード入力は早い。正確な両手の運指は前の会社でも評判だったものだ。
 克彦は少し大きめのペン型をしたボイスレコーダーの単4電池を新品に取り替えた。
 
 次の日三人は早めに東京を出発し、箱根に向かった。運転は克彦だった。後部座席に二人座った。三人ともあまり話はしなかった。父・間宮弁護士は今後の展開をどう進めるか模索していたし、克彦は初めての大きな事件に動揺していた。美枝子はどんなことでも最善を尽くして協力することを改めて決意した。
 やがて当該警察署に到着した。案の定マスコミが何十人もカメラやマイクを持って待機していた。間宮一行が署内駐車場に車を停車させると、すぐに周りを取り囲み、<遺族の方ですか!>と詰め寄ってきた。
「いや、そうではない」
 と、入り口に急ぎ、入り口に立っている署員に弁護士であることを告げて野上刑事に会いたいので取り次いでくれるよう依頼した。
 しばらくして野上刑事ではなく、私服の女性が出てきて3階の会議室に案内された。
 入り口に『強羅温泉殺人事件捜査本部』とあった。
<あ、殺人事件と断定されたんだ>、3人とも緊張した。
 入っていくと、ちょうど捜査会議が終わったところだった。
「それでは、いま話したように、徹底的に10人の交友関係を洗い出してもらいたい。特に借金問題、怨恨を重視するように」
 数えると12人いた私服刑事が一斉に立ち上がって一礼をして部屋を出て行った。さっきの女性も一緒だった。あとで分かったことだが、同窓会参加者10人のうち2人は女性だったそうである。そのための捜査態勢の組み方だったのだ。
 間宮弁護士は国崎稔の弁護人であることを告げながら挨拶をし、野上刑事と名刺交換をして、早速話し始めた。
「入り口に『殺人事件』とありましたが、司法解剖の結果ですね」
「そうです。肺の中にも、胃の中にも温泉の湯の成分は認められなかった。後頭部の精密な外傷検査も鈍器で殴られたものと断定できました」
「今日、これから現場を見たいと思っていましたが、その必要はなさそうですね」
「ないです」
「殴ったと思われる鈍器は見つかりましたか」
「石であろうと思いますが、外の傾斜面を持つ小川には格好の石がごろごろしているので、見つけるのは困難だと思っています」
「そうすると犯人が分かっても物証がないことになります。なにか決定的な証拠が出ましたか。たとえばもみ合った時に被害者以外の血痕が見つかったとか、被害者の爪に血痕があったとか」
「いえ、もみ合った形跡はなかった。いきなり後ろから石らしきもので殴り殺したと思われます」
「では現時点では証拠は何もない、ということですね」
「・・・・・・」
「なぜ、国崎稔を留置しているのですか?」
「自白を待つ・・・・・」
「それは筋違いでしょう。国崎に会わせてください」
 野上刑事は<これは放すしかない>と、この時思ったようだった。
 廊下に出ようとした時、武田美枝子は
「先生」
 と、呼び止めて、小さい声で
「同窓会の出席名簿があれば、貰ってください」
 と言った。
「あ、そうだね」
 と言って野上刑事の方を向いたが、美枝子の声が聞こえたのか、すぐに出席名簿のコピーを持ってきた。
「これが、その出席名簿です。害者は、この丸印」
「先生、僭越ですが、少し刑事さんとお話してもよろしいですか?」
 と懇願するように言った。
「ああ、何でも。・・・・克彦は何かないか」
「あ、いえ」
 美枝子が刑事に向かって聞き始めた。
「この参加者名簿は、当然、現時点の居住住所ですね。東京をはじめ、神奈川、埼玉県、千葉県など広範囲にわたっています」
「そうですよ」
「誰が、この住所録を作ったのですか?」
「この一番上の “幹事” となっている水島抄造という人です」
「同窓会をしようと一番最初に言い始めた人ですか?」
「そうです。昨日一人ひとりの聞き取りをしたとき、それがわかった」
 この辺までの問答で間宮弁護士は<これは、いいところを突いている>と思った。
 美枝子は更に続けた。
「同窓会をするには、当時の小学6年生、その人たち全員に案内状を出す必要がありますが、水島抄造さんは、その同窓生の住所録を持っていたのですか」
「いえ、それも昨日聞いたところでは、何十年も前の事であるし、その後火災にあって、学校が全焼し、そういった資料がすべて失われ、全く分からなくなったそうです。しかし同窓会をやりたいという思いで、3年以上かかってようやく全員21名だったそうですが、現住所を調べ上げたと言っていました」
「そうですか、ありがとうございました」
「そういった住所と今回の事件は何か関係があるのですか」
 と、少し強い調子の不機嫌な顔で野上刑事は武田美枝子を睨み付けて言った。
「いえ、昨日刑事さんが聞き取り調査をなさったと同様の参考資料としたまででございます」
「そうですか」
 と、顔もほころんだ。アイドルのような可愛い子に根掘り葉掘り聞かれたのでむかついていた様子だったが、急に態度が変わった。
 
 東京への帰途では後部座席に国崎稔と間宮達彦が座っていた。助手席に美枝子、運転は克彦である。国崎稔は東京に出てきて成功し、現在横浜で高級レストランを経営している人だと分かった。間宮達彦がまだ若い頃、ちょっとした事件だったが、国崎稔の弁護をして、訴訟に勝ったことがあるそうだ。それ以来の付き合いで、当時の話を懐かしく話し合っていた。その話の中で、国崎は長野県の出身である事を知った。
「克彦さん、今回の同窓生10人はみんな長野県出身ね」
「そうなんだね。現在の居住は関東地方周辺で、バラバラだけど」
 
 しばらく車は東名高速を走っていたが、美枝子がふっと時計を見ていった。
「ニュースがある時間ね。ラジオ付けていい?」
「ああ」
 ニュースは石油原油価格がますます下がっていく事や、富士山で火山性微動地震が頻繁に発生していることなどが報道されていたが、突然、
「いま入ったニュースです。千葉県の市原市に住む関口光男さんが何者かに全身を刃物で刺され、自宅玄関前で倒れているのを帰宅した長女が見つけ、救急車で近くの病院に運ばれたが、すでに失血死していた模様です。(スタッフからメモ用紙が渡されたようで)、最新の情報です。この関口さんは一昨日起きた箱根温泉殺人事件の泊まり客10人の中の一人だったとのことです。」
 車内は騒然とした。美枝子はすぐにバッグの中から同窓会出席名簿を取りだして確認した。
「先生、この方です。関口光男さん、千葉県市原市」
「国崎さん、この関口光男さんに何か心当たりはありませんか?」
 間宮弁護士が聞いた。
「いえ、子供の頃の遊び仲間で、別に特長のない普通の人です。長野で牧場を持っていたのですが、その経験で千葉県に牧場を買い、現在牧場主として成功しています。つい一昨日そういう近況話に花が咲いたばかりです」
「これは三人目の犠牲者が出るかもしれない」
 間宮弁護士は厳しい声で言った。
 
 間宮達彦の予想は的中した。翌日東京豊島区に住む村井哲夫が小型トラックで跳ねられ、即死した。同窓会に出席した一人である。車はキーを差し込んだままだったための盗難車であることもわかった。
 すぐに神奈川県警、千葉県警、警視庁の合同捜査本部が警視庁内に設置され『同窓会連続殺人事件』と名称が変更された。
 そして誰もが四人目の犠牲者が出るかも知れないことを予想した。合同捜査本部では手腕刑事が何人も加わり、徹底的な捜査が開始され、連日、テレビや新聞で報道された。
 しかし同窓会出席者10人の付き合いは全くなく、借金問題や怨恨など、ことごとく消され、捜査は難航をきわめるばかりであった。
 
 武田美枝子は、ふっと何かがひらめいた。それは自分が小さい頃友達と野山を駆け回って遊んでいた頃の記憶だった。
「先生、もう一度今度は三人目の犠牲者村井哲夫さんのことを、国崎さんにどんな人だったか聞いてくださいませんか」
「おお、よろしい、よろしい」
 すぐ国崎に電話をして詳しく聞いた。
「やはり千葉県の関口光男と同じだ。子供のころよく遊んでいた仲間で、性格の良い大人しい子だったそうだ。人に殺されるような、そんな人ではないときっぱりと言っていた」
「やはり・・・・・先生、私わかったような気がします。今度は国崎さんが犠牲になるかもしれません・・・・」
「え!何を根拠に!」
「克彦さんと私で手分けして、大至急に出席者10人全員の戸籍謄本を取ってもらうようにします。亡くなった方のは遺族に頼めばいいですね」
「いや、それは君たちがしなくていい。捜査本部に依頼すればやってくれる。何をしようというんだね」
「戸籍謄本には昔どこに住んでいたのかから、現在まですべて記載されていますね。“幹事” の水島抄造さんは現住所を3年以上もかかって調べたとの事でしたが、10人の子供の頃の住所を知りたいのです。何々村に住んでいたという共通点が犠牲者3人と国崎さんを含めてあれば、国崎さんが危険です」
「なぜかね!」
「何かが子供の頃にあったと思われるのです。いままで、その恨みをはらせなかったのは現在の住所が分からなかったからでしょう。犯人は同窓会で、これらの人の住所が分かり、一気に行動を起こしたと考えられます。そういう意味からは幹事の水島抄造さんは犯人ではないです。なぜなら3年もかけて21人全員の現住所を探し出したのですから、分かり次第行動を起こしていたでしょう。今回のように一気に3人も殺害するようなことはないと思います」
「国崎さんが危ない!」
 間宮弁護士はすぐに捜査本部に、いまの話を伝えて10人に昔の住所の共通点がないかを調べることと、国崎の保護を依頼した。
 警察の動きは速かった。同じ村で近所で遊べる人物は5人いた。内3人が殺害された。国崎は自宅から一歩も出ていない。これは間宮から厳重に言われていることで、警察も箱根から帰って以来見張りをしていた。残る1人に容疑がかかる。須藤安弘である。間宮は国崎に確認の電話をした。<子供のころよく須藤安弘とも遊んでいた>とのことだった。
 同窓会出席者の残り5人のうち2人は女性で、とても大きな石で後頭部を強打して殺害し、浴槽に放り込むような力はない。
幹事の水島抄造も武田美枝子の指摘は当たっている。あと2人の住まいは当時峠を越えたところで、子供の頃一緒に遊んだことはないという国崎の証言だった。
 
 警察は20人体制で国崎を守ることを約束し、国崎に夕方自宅から経営しているレストランまで一人で行くことを指示した。
 須藤安弘が現れた。国崎を尾(つ)けている。右手をポケットに入れている。私服刑事達はすぐにナイフであることがわかった。須藤は早足で国崎を追った。あわやという瞬間、刑事数人が須藤に飛びかかり取り押さえた。
「箱根同窓会殺人事件における3人の殺害容疑と、国崎への殺人未遂の現行犯で逮捕する。時間午後19時26分」
 その日のうちにテレビで大きく報道された。3人の殺害も認めた。しかし動機については取調中であるとの報道だった。
 
「弟さんの事が何十年も忘れられなかったのね。かわいそうな事件だったわ」
 間宮達彦も克彦も、そして長谷恵子も<よくやった>と褒めてくれて、久々に事務所に明るさが戻ったが、武田美枝子にとっては悲しくさえある事件だった。遠い故郷を持つ者だけが分かる心境だった。
 
 須藤安弘は小学校6年生のとき、近所の遊び仲間と当時3年生だった弟の計6人で、神社の境内でかくれんぼをして遊んでいた。日も暮れて帰ろうというとき、ふと見ると弟がいない。みんなで探してくれと頼んだが、みんなバイバイと散りぢりになって帰ってしまった。一人必死になって探したが見あたらない。先に帰ったかと家に戻ったがいない。親を連れて境内に戻り探したが、結局見つからなかった。次の日、村の消防団や青年団20人以上が懸命に探してくれた。発見されたのは古井戸の中の変わり果てた弟だった。