武田博士の家は、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷という駅を降りて、かって東京教育大学のあった方へ向かい、坂を下り、昔は氷川下町、今は千石と呼ばれている町の氷川神社の裏手あたりにある。すぐ東手には小石川植物園のある、かつては閑静な住宅地であったが、最近は千川通りの車の騒音で、昼間はお世辞にも静かとはいえなくなっている。千川通りは大昔は川であった谷あいの道路で、台風時や大雨では、たびたび洪水になっていた道路である。ここから氷川神社の方へ坂を上がりきったところの、高台のこじんまりした家である。
「あら、いらっしゃい。お待ちしてました」
 玄関のチャイムの音で出てきた武田夫人は明るく茅場修を迎えた。2階からばたばたと急いで下りてくる音がした。武田美枝子だ。
「こんにちは。お邪魔します」
「いらっしゃい」
 嬉しそうに笑みを浮かべて、美枝子はすぐ玄関に下り、ドアを閉めようとしている茅場に代わって、自分でドアを閉めた。その時、茅場の手にも触れ、胸がドキンと高鳴ったが母親に気付かれないように、いたって平静に少し離れながら言った。
「きょうは何だか父が話があるからって、お呼びしまして、ほんとにすみません」
「いえ。そんなことはありません。先生に呼ばれるなんて恐縮です」
 
 茅場が武田家を訪問するのは、これで2度目である。前はドクターコースを卒業したあと、研究室に残り、博士の元で研究を続けることを頼みに来た時だった。難関を突破した最優秀学生だっただけに、博士の喜びはひとしおで、二つ返事で快く承諾してくれたのだった。今では博士の片腕となって研究を続け、論文の整理やちょっとした出張は博士の代理として行くようになっている。
「駅前でいちごを買ってきました。みなさんで召し上がってください」
「あら、そんなことしなくていいのに。この時期、苺は高いのよ」
 最近は苺といっても、三月、四月だけのものではなくなった。10月にはすでにデパートに並んでいる。
 夫人は美枝子にもお礼を言うように目でささやいて、丁寧に包みを受け取り、奥へ行った。
「修さん、無理しないで」
 2人になったら、とたんに甘え声になって体をすり寄せて言った。
「どうぞ、入って」
 玄関から上がって正面右には、2階に行く階段があるが、その左手に応接間がある。そこへ案内しながら美枝子が言った。
「お父さま、茅場さんです」
「おお、よく来てくれた。今日は日曜日だから、ほね休みもしたかっただろうに。わるいね」
 何やら書き物をしていた仕事机から、博士はソファーの方に歩みよりながら言った。
「いえ、とんでもないです」
「ま、かけたまえ」
 応接間といっても、書斎を兼ねたような部屋で、洋間12畳の端の方に客用のソファーとテーブルがあり、反対側に仕事机がある。決して豪華なものではなく、どちらかというと質素な作りの機能的な机と椅子である。ソファーやテーブルも同様で、高価・贅沢なものでないのが、武田博士の人柄を表しているようだ。仕事机のある方に窓があり、明るいが、その他の壁という壁はすべて本棚で、びっしりと専門書がある。
 以前に訪問した時は、あがっていたせいか、また、あまりの書籍の圧巻に押されてか、よく部屋の中が見えなかったが、きょうは落ち着いて部屋を見ることが出来た。
 茅場が欲しいと思っていた書籍もある。
 Pergamon Press 発行、レニングラード大学の V.Fockの[The Theory of Space Time and Gravitation] がそれだ。
G&B社のTonnelat著[Einstein's Theory of Unified Fields]もある。
 もともと武田博士は天文学が専門ではなかった。理論物理学で、特にその中でも素粒子や原子物理学の出身であるが、どうしても現代素粒子物理学の混沌とした、いわば言いたい放題のまとまりのない理論に嫌気がさしたことと、アインシュタインの“相対性理論は間違っている”という論文以来、理論物理学会から白い目で見られるようになったことから天文学に転向したのである。
 もちろんアインシュタインの書いたPrinceton University Pressの[The Meaning of Relativity]は初版から4版まですべて揃っている。
「何をじろじろ見ているんだね。欲しい本があったら遠慮なく言い給え。貸して、いや何ならプレゼントしてもいい」
「ありがとうございます。さすが統一場理論のご本が多いなと見ていたところです」
「アインシュタインの統一場理論を、最近は別の角度から、つまり量子力学も取り入れた理論に仕上げようと世界中の理論物理学者がやっているが、私に言わせれば出来っこないんだ」
 そう言いながら博士は書棚から、Schweberの[Relativistic Quantum Field Theory]を取出して、447ページを開けて、話を続けた。
「このファインマンダイヤグラムを私は複素平面にした理論を発表したことがあるが、失敗だった。茅場君は知っているかな」
「はい。その後、先生はさらに時間軸を導入した4次元位相空間に理論を拡張して統一しようとなさいましたね。でも、それも先生自ら訂正論文を出されました。普通、科学者は自分の論文が、後で間違いだったと解ってもなかなか訂正しないし、黙っていることが多いのですが、先生はいつも・・・・」
「そうなんだ。いつも訂正、訂正で。だから皆から馬鹿にされるんだ」
 ワッハッハと笑いながら、2年前発表して全世界を唖然とさせた “相対性理論は間違っている” という論文の素稿を引き出しから出して茅場に見せようとした。その時、美枝子が入って来た。
「お父さまったら、ここは教室ではないのよ」
 先程茅場からもらった苺を持って、入って来るなり、そんな話はやめたら、と諭すように言った。コンデンスミルクが少しかけてあり、赤く艶のあるおいしそうな苺である。
「いいんだ、茅場君は。わしの言いたいことが解ってくれる唯一の学者だから。後継者といってもいいかな」
「まぁ、嬉しい」
 自分のことのように喜んで、茅場の傍にいったん座ったが、その論文の素稿を手に取った茅場を見て、
「じゃ、ごゆっくり。今日は夕食をご一緒にね」
 と、茅場の耳元にささやいて、にっこり笑顔を見せながら、返事も待たずに部屋を出て行った。手編みだろうか、後ろ姿のニットが可愛い。
「理論というのは、間違ったまま、一人歩きし始めるのが一番危険なんだ」
 と、ソファーに座り直しながら博士は言った。
「そうですね。理論物理学だけでなく、数学でも、経済学でも、何でも言えることですよね。間違っていることに気が付かないで、どんどんそれが発展していくと、もううしろを見ても取り返しのつかないほど遠い所まできている、ということが世の中にはたくさんありますね」
「量子力学と相対性理論を一緒にしようとする、いわゆる相対論的量子力学がその典型だ。もともと量子力学は不連続を扱って統計的、確率的に処理をする理論なんだ。一方の相対性理論はニュートン力学やマクスウェル電磁力学を書き換えただけの連続性を根本原理とする理論だ。いわばデジタルとアナログの違いだね。これを一緒にしようというのは、土台無理な話なんだ」
「そうですね。男性と女性、有機物と無機物、動物と植物というように、世の中には2つあって、うまく釣り合いが取れるようになっていると思います。ニュートン力学とマックスウェル電磁力学の2つがそれですよね。無理をして量子力学と相対性理論を一緒にしようなどとしない方がいいかも知れませんね」
「かも、じゃない。してはいけないんだ。できないんだ。量子力学は不連続を扱うといっても、見方によれば、量子力学そのものは、それ自体でAD変換もDA変換もできる理論構造をしている立派な理論だ。相対論が入り込む余地はないんだ」
「相対論が根本的に間違っているとなれば尚更ですよね。・・・先生は、2年前、この“相対性理論は間違っている”という論文を発表されて、かなり物議を醸し出されましたですけど、先生の多変数位相渦理論は相対光速度と物体の速度を完全に分けて展開されてますね。新しい理論として注目されていますが、多くの保守的な科学者はまだ新しい考えについて行けないようです。」
 と、茅場は博士の英語で書かれた論文の素稿の要所要所を見ながら言った。
「そうだな。アインシュタインの原理、という言葉に人々は弱いものだ」
「そうですね。真理という言葉にも人々は弱いです。あと、相対的とか科学的とか、そういう言葉にも人々はすぐハマッてしまいますね。・・・波と物質に関してですが、量子力学では波と物質をうまく統一しましたね。これはいかがですか」
「量子力学は基本的に間違ってはいない。量子力学は波と物質が全く同じものであるとはしてない。観測していると、ある時は波のように、またある時は物質のようになるという統計処理をする理論で、いつも観測を主体にしている。光の波長が短くなると粒子性を帯びてくるのだが、それを見事に波動力学として完成させたのが、一般的に言われる量子力学だ。
・・・話が横道にそれたが、アインシュタインが間違ったのは、この光と物質を運動学上で全く同一視し、しかも光速度不変の原理だ!」と、博士は少し強い調子で、天井を見上げながら言った。
「光が一定の速さだからといって、物体間の相対速度までを光速以上にはならないと決め付けてしまったことは大きな過ちだと思います。そうやって時間を合わせるとか、時間の概念を変えてしまった特殊相対性理論は20世紀物理学にとって、大きな弊害になったと僕は思っています」
「その通りだ。アインシュタインの原理という弊害は大きい」
「学問というのは、たとえば歴史などでは、そう、卑近な例ですが、耶馬台国はどこか、というような研究の場合、畿内大和説と九州説があるわけですが、それぞれの学者はどちらも一歩も譲らず、双方の主張ポイントや証拠を念入りに研究して、お互いが発展していきます。とても良い発展の仕方だと思います。でも現代理論物理学の世界は、ゼッタイに相対性理論は正しいんだ、量子論は正しいんだ、と相反する理論構造をした二つの理論を両方とも頭から信じ込んで、その枠から一歩も出ようとしてません。これがいけないと思うのです。先生の理論のように「光は電磁波だから光源を動かしても加速は出来ない、直交するEとHの場が相互エネルギー変換しながら自由空間を一定のスピードで直進する。一方、物体は加速出来る」ことを、なぜ素直に考えないのか、ぼくは本当に歯痒く思っています」
 茅場もいつになく、力のこもった口振りで一気に言った。
「そうなんだ。・・・・きみは、本当に私の言いたいところが判っている。・・・・私の多変数位相渦理論を大きく進展させてくれ。頼む」
「はい。わかりました。一生の仕事として、受け継がせていただきます」
 頼もしい奴だと、目を細くして博士は茅場を見るのだった。その時、夫人と美枝子が一緒に入って来た。
「お話はもうお済み?」
 美枝子がお茶を、テーブルの上に置きながら言った。
「いや、じつはまだなんだ。すっかり理論物理の話に夢中になって」
「まぁ、茅場さんにご用があるからと、お呼びしたのに」
 夫人が、苺のお皿を片付けながら言った。
「・・・・茅場君、今日わざわざ来てもらったのは、ほかでもない、今、冥王星の軌道を動かすほどの謎の物体が太陽系に侵入しているが、この調査、観測で世界中の天文台が躍起になっているね。先日私が文部省に呼ばれたのは、中国政府から日本の科学者を、応援に2〜3人派遣して欲しいという要請があったことなんだ」
「中国にですか」
 目をぱちくりさせて、茅場は美枝子と顔を見合わせた。ぼくに中国に行ってくれ、と博士は言っている。何日間くらいだろう、どんな分野の仕事で、ぼくとあとは誰だろう、など頭のなかでいろんなことが錯綜したが、博士の言うことなら、どんなことでも喜んで引き受ける準備は、その何分の一秒かの間に決まっていた。
「中国のどこ?・・・・」
 と、美枝子が口をはさもうとしたが、すぐ博士は、
「紫金山天文台だ」
 と、茅場に向かって言った。
「あぁ知ってます。南京にあるそうですね」
「そうだ。あそこは、新しい彗星の発見や、はぐれた小惑星が地球に接近して隕石になるのを何個も発見し、予言もしたことで有名な天文台だ。・・・・予定では半年くらいということだが、延びるかも知れん。茅場君行ってくれるかな」
「はい、喜んで。・・・・でも、観測だけなら向こうの科学者で十分だと思うのですが」
「まだ詳しい打ち合せはしてないが、文部省の説明では、コンピューターと連動して軌道計算がすぐ出来るソフトは、アメリカのNASAと日本が一番進んでいるから、それで中国から、そのソフトとコンピューターを持ってきて欲しいと話を持ち込んだそうだ」
「そうですか。・・・・いまぼくたちが観測に使っているCCD信号変換装置と、それを計算するソフトは、ひょっとしてNASAより進んでいるかも知れません。・・・・でも、あれを使いこなせるのは、先生とぼく以外では・・・・」
 美枝子はハッとした。背中に冷たいものがすーっと流れたようだった。白浜さんだ。白浜宏美だ。あの人が一緒について行く。いやだ!修さん!喉から口先まで出てきたが、さすがに父や母の前で、あからさまに修さんを連れて行かないで、とは言えなかった。
「気候も違うし、山の上の天文台は寒いんでしょう。私も行く」
 と美枝子は自分でも何を言っているのか分からない、とんちんかんなことを口走った。
「ばかな事言うでない。遊びに行くのじゃないんだよ」
 博士はちょっと叱るような口振りで言った。
 夫人は白浜宏美のことは、まだ知らない。美枝子の態度が急に変わったのが、よく呑み込めなかった。単に半年ほど離れ離れになるだけなのに、まぁ若い娘のことだからという程度にしか目に映らなかった。
 博士はさすがに美枝子の動揺した態度を見て、気持ちは察したが、茅場は間違ったことをする人間ではないし、また美枝子が茅場を慕っていることは十分承知している筈だ。美枝子に不安を抱かせるのはわるいが、止むを得ない。白浜君を連れて行こう、と心の中で決めていた。
「そうだ。君の右腕になるのは白浜君以外にはいない。・・・・じゃ、3人で行こう。文部省にそう報告しておく。多分来週になると思う。いろいろ準備があると思うが、よろしく頼む。白浜くんにはわたしから頼んでみる」
 やっぱり白浜さんだ。どうしよう、いやどうすることも出来ない。修さんを取られる、いやそんなことは絶対ない。美枝子は、頭の中で、遠く異国の地で2人が仲良く仕事をしている情景が駈け巡った。
「茅場さん、風邪なんか引かないでね」
 切ない想いを声にすると、すーっと頭の中がからっぽになるのを感じるのだった。
「茅場さんは、中国語がお達者だから良かったですわね」
 と、夫人は、よく博士から聞かされて知っていたので、茅場に言った。
「いえ、そうでもないです。片言の中国語です。先生は日本語くらい中国語が堪能でいらっしゃいますが、ぼくなんか、とても。でも半年もいれば上手になってくるかも」
 と、笑いながら答えた。
 美枝子は夕食の支度の続きをするからと言って部屋を出ていった。うしろ姿がいつもの元気がなく、なにか寂しげだったので、夫人はさらに茅場に言った。
「茅場さんとちょっと離れ離れになるのが、もう寂しいんだから、あの子ったら。甘やかして育てた私が悪いのですわ」
「いえ、そんな・・・・」
 茅場も美枝子の胸のうちは分かっていたが、まさか、この場で夫人に余計な事を言うわけにもいかず、返答に困った。それを見通したように、博士が言った。
「いいさ、いいさ。あの年頃は、ああいうもんだよ」
「そういうように、あなたが甘やかして育てたから、あんなになったんじゃなくって?」
「おい、おい。茅場君に向かっては自分のせいだと言っておきながら、私に向かっては、あなた、か。それはないよ」
 と、お茶をすすりながら、にこやかに博士は言った。茅場は論文の素稿を返しながら、
「向こうに行ったら、毎日でも電話します。南京は距離的にも、そう遠いところじゃないですし」
 と、夫人の方を向いて言った。
「・・・・じゃあ、明日から早速準備に入ってくれたまえ。必要な器材で、新しいものが欲しい時は遠慮なく言ってくれ」
「はい、明日といわず、今日からリストアップに入ります」
 博士と夫人は頼もしそうに茅場を見つめていた。