この一週間は武田博士をはじめ、茅場修、白浜宏美、その他の惑星研究室のメンバーはてんてこまいの忙しさであった。
 武田博士は文部省を何度も往復し、中国政府との打ち合せを行い、向こうの科学者の名簿やその経歴などの調査、および観測結果の公表の仕方などを丹念に決めていった。幸い中国側には武田博士の旧友である孫万歌教授や李鵬陽、趙先雲など、何年も研究員として在日していたメンバーがいた。優秀な科学者達で、私的な付き合いも多々あった。
 茅場は主に観測を冥王星だけでなく、他の天体に移すことを考え、観測機器の充実に努めた。2000万画素のCCDカメラとその冷却装置、従来のマイナス45度から一気にマイナス60度という超低温にしたもので、熱電子冷却を行い、ノイズのない鮮明な画像を得るものである。CCD本体は6・5インチで、約3400×2550個のセグメントが内蔵されている。冷却装置はペルチエ効果を利用した電子冷却法によるものである。記録はもちろんコンピューターであるため、その機種や容量の問い合わせを行い、結局、日本から64ビット機を持っていくことにした。モニターには通常の19インチフラットパネルのほか、ハイビジョンも持っていく。中国は電源電圧が220ボルトであるため、機器にはそれぞれスライダックや専用のアダプターを用意したのはいうまでもない。
 白浜はコンピューターソフトのプログラム変更に付きっきりであった。紫金山天文台には赤道儀と経緯儀の両方があるというので、どれを使う場合でも、多数の恒星位置や変光星、星雲のデータ入力を行なっておき、目的の惑星名と時刻さえインプットすればただちに望遠鏡が、自動的にその天体を導入し追跡するようにプログラムを作った。
 赤道儀は日周運動による天体の動きを追跡する装置であるが、地軸を中心に正確に二十三時間五十六分四秒で一回転するようにした極軸(地軸に平行に備え付ける)と、これに直交する赤緯軸で構成されている。この二軸をコンピューターで制御し、目的の天体を望遠鏡の視野の中に入れる。その後は極軸だけをコントロールして、天体を追跡するのである。赤道儀はその構造上あまり重くない望遠鏡に装備されている。
 この赤道儀に対して経緯儀という架台は、経つまり左右方向いわゆる方位軸と、緯つまり上下方向いわゆる高度軸の二軸による天体の追跡を行なうものである。この二軸は望遠鏡の重心の位置に備え付けられるので、大重量を支えるのに適しており、大望遠鏡に使用されることが多い。二軸で天体を追跡するので、視野の中で天体が回転する欠点がある。これをコンピューターで補正をするのである。これらの追跡により、ただちに天体の軌道計算ができるようコンピューターと連動させる。
 その他の惑星研究室メンバーも、器材の点検、荷造りなど精力的に茅場に協力、専門業者に頼み、前もって紫金山天文台に送った。
 
 十月の成田空港は、抜けるような深い青空と、タイヤの跡が黒々と線を引いている滑走路、それにカラフルな数々の航空機で、自然と人造物の対比が人々をそれぞれの想いに急き立てていた。
 惑星研究室のメンバー五、六人と武田夫人それに武田美枝子が、すでに搭乗手続きを終えた武田博士、茅場修、白浜宏美の3人を囲んでいる。武田博士がメンバーに向かって言った。
「みんな、この一週間は本当によくやってくれた。おかげで予定通りの出発が出来ることになった。留守中は各国の天文台からの情報を整理して、少しでも挙動不審な天体が発見されたら、すぐ紫金山天文台の方へ報せてくれ。頼む」
「先生を国外に・・・・」
 と、言いかけて涙ぐむ岡本晴美に、すかさず茅場は、
「その話は言いっこなしだよ。先生はご自分で選ばれたんだ。向こうでもきっと良いご研究、観測をされるから」
 と、小さな声で慰めて言った。
 武田博士が日本で業績を上げるのを妬んだ藤川教授の策略であったことは、文部省に呼ばれて話合った、その時に博士には分かっていたが、そのことは誰にも言ってはいなかった。しかし、さすがは研究室のチーム。武田博士のその後の言動や、藤川教授がますますマスコミに顔を出すようになるに及んで、すでにチーム皆には、今日の中国への出発は博士が国外に放り出される、という裏を感じとっていたのだ。博士も口にこそ出さないが、すでにチームの皆が自分のことを、そういう目で見ていたことはうすうす知っていた。いまの<先生を国外に>という言葉と茅場のささやきで、やはり、と博士は、心配をかけてすまない、と心の中でつぶやくのだった。
 
 武田夫人は、初めて白浜宏美と逢った。名前だけは聞いて知っていたが、こんな小柄の可愛いお嬢さんだとは、しげしげと美枝子と見比べるのだった。さっきこの特別待合室に入って来た時初めて逢い、挨拶を交わしたが、その態度といい、言葉使いといい申し分ない。美枝子とは大分違うと、少々落胆気味であった。しかし、自分のこどもというのは分かっているようで、そうでもないのが普通で、武田美枝子もさっぱりした現代女性である反面、きちっとした礼儀正しい振る舞いや言動は、親の躾けや親譲りである。
「白浜さん、主人の身の回りの世話や何やかにやで大変でしょうけど、何分よろしくお願いしますわね」
 白浜宏美は何も博士や茅場の世話をしに行くのではなく、コンピュータ制御のプログラムソフトを使いこなすには、いなくてはならない人材なのであるが、夫人の目にはそう映らなかったのだろう。
「はい、かしこまりました。一生懸命お役に立つようにいたします」
と、丁寧に返事をしたが、言いながらも武田美枝子が気になって、それとなく美枝子の方を見た。
 白浜宏美の質素で清楚な服装に比べて、武田美枝子は今日は一層めかし込んでいるようだった。惑星研究室のメンバーが何人も見送りに来ているし、とにかく自分はチーフである博士の娘である、このことが自ずとそうさせているのだ。
「茅場さんは自分のことは自分でやるわよね」
 と、わざと大きな声で美枝子が言った。
「わたしだって、ちゃんと自分のことはやる。何も白浜君にやってもらうために一緒に行ってもらうわけじゃないよ」
 美枝子も女房もとんでもないことを平気で言うもんだ、と少し怒ったように博士が言った。
 メンバーの一人が雰囲気を変えるように、
「白浜君、軌道計算のプログラムなど、大丈夫だろうね。ミスはないね」
 と、念を押すように言った。
「ええ、大丈夫です。軌道計算ソフトと赤道儀、経緯儀をコントロールするソフト、それにドームを制御するプログラムも持っていきます。でも、このドームをコントロールするのは、向こうのコンピューターでもいいんだそうですけど。一応持っていきます。・・・・半年くらいのお別れね」
「そうだね。体に気をつけて」
「無理をしないで、頑張ってね」
「南京は暑かった夏も終わり、さわやかな秋だということだけど、夜の冷込みは急激にくるというから」
「でも、白浜さんって、見かけによらずタフなのよね。その調子で、体調を崩さないように、病気をしないように、食べ過ぎないように・・・・」
 一同がどっと笑った。博士や茅場は男性で、今までにも遠くへ出張に出かけたことはしばしばあるが、白浜は、いかにもひ弱に見える女性で、今回のような長期間の出張、しかも外国というのは初めてである。皆が心配するのも当然である。この見送りの中心が何かしら白浜のようになっていった。
 美枝子は内心おもしろくなかった。というより腹だたしかった。自分も行きたいと再三父親にねだってみたが、叶うはずもなかった。茅場さんを取られるかも知れない、そういう焦燥感がまたつのってくる。つつっと茅場の方に寄って、腕をとり、
「向こうにいきましょう。まだ時間はあるし」
 と、二人は特別待合室を出て行った。
 
 滑走路が何本も見える展望台に上がり、二人は寄り添ってベンチに座った。
「大丈夫?」
 と、美枝子が口を開いた。
「何が」
 茅場は美枝子の心のうちは全部分かっていた。いわゆる嫉妬に似た感情があるのだ。ぼくはそんな男じゃない、と言う代わりに、何が、と答えた。
「ううん別に。・・・・父のことよろしくお願いね。もう歳だから」
 と、美枝子は何も考えないで、頭に浮かんだことをすっと口に出した。
「歳だなんて、とんでもない。まだまだ一線で活躍なさっているのに・・・・」
「白浜さんって、どんな人?」
「どんな人って、あたまが良くって、仕事熱心で、コンピューターのソフト開発では、今の惑星研究室では右に出る者はいないよ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「茅場さん、どう思っているの?あの人のこと」
「どうって、そう思っているだけだよ。あたまが良くって、仕事熱心で・・・・」
「白浜さん、茅場さんのこと好きなんじゃなくって?」
「そんなことないと思うよ。研究上のことで付き合っているだけだから」
「白浜さんは、ご出身はどちらなの?」
「静岡県の鷲津。浜名湖のそばのいいところだよ」
「よくご存じなのね」
「だって、そのくらいの話はしたことがあるもん」
「で、高校まであちらで、大学が父のところになったというわけね。そんなにあたまがいいの。・・・・今度の中国行きでは、白浜さん以外にはいなかったの?白浜さんが、父や修さんの世話をすることになるの?そんなこといやよ」
 早口で、あせったような口のきき方だった。しかも目にはいっぱい涙をためていた。
「そうではないって。さっき先生もおっしゃっていただろう。自分のことは自分でやる。身の回りの世話のために白浜君が行くんじゃないって。・・・・宿舎も南京大学の寮なんだけど、男性用と、女性寮は別棟で、離れているといっていた。そんな心配はしなくていいんだ。美枝子さん」
「ほんとね。修さん」
「もちろんだよ」
「ごめんなさい。わたし・・・・わたし、どうかしてるわ」
 少ししゃくりながら、涙を拭いて言った。
「予定では半年くらいだよ。あるいは延びるかも知れないけど、手紙を出すよ。いや電話がいいかな」
「電話がいい。声聞きたい」
 美枝子は茅場の肩へ顔を埋めて甘えた。
・・キーンとジェット機のエンジンのウオーミングアップがうるさい。ほぼ1分毎に発着する国内外のジェット機。最近は国内線も成田空港を使っているものがある。
「どの飛行機にのるんでしょうね」
「中国民航のエアバスA310ということだけど、どれかな。ちょっと判らないね。あのサテライトの向こう側のボーディングブリッジだと、飛行機は見えないからね。それにまだ整備中かも。・・・・上海まで約3時間、そこから特急列車で約4時間だそうだ。上海から南京までは飛行機もあるけど、なぜか列車を手配してくれたんだ。いずれにしても七、八時間という近いところだから、永久の別れみたいに泣かないで」
「ううん、悲しかったのはそうじゃないの。もういいの。ごめんなさい」
 二人は無言のまま、しばしの時を過ごした。美枝子はもう飛行機や景色を見ようとはしなかった。茅場の肩へ顔を埋めたまま、目を閉じてじっとしていた。
 
 待合室の近くまで戻ってきたら、何やら騒々しい雰囲気である。どうやらAテレビ局の取材のようである。それも武田博士の一行を取材しているようだ。今日午後出発することは新聞にも出ていた。
「テレビのニュースの取材ね。A局だけね」
 美枝子はハンドバックからコンパクトを取出し、化粧崩れをパフで直すことを忘れなかった。
「ああ、あなたが茅場さんですね。今回、紫金山天文台に行くことになった・・・・いま武田博士と白浜さんにお話を伺っていたところです。中国政府の要請ということですが、向こうの目的は何でしょうか。いまお昼の生バンですのでよろしく」
 茅場はちらっと武田博士の方を見た。博士はにこっと笑って、適当に言っておきなさいというような目で応えた。
「太陽系に異常な事態が発生したことで、世界中がいま天体に湧いていますが、中国も観測の強化をしたいということでしょう」
「昨日のチリのS天文台の発表では、冥王星の軌道変化は落ち着いたということですが」
「そうですね。でも、それが危な・・・・」
 そこまで言いかけて、茅場はまた武田博士の指示を目で仰いだ。今度は厳しい目をしていた。言うな、という風であった。茅場も武田博士も、その冥王星の軌道変化が落ち着いてきたことはすでに知っていた。この一週間忙しかったが、観測だけは怠っていない。たったの一週間ちょっとくらいの間に冥王星の軌道の異常が安定したということは物凄いスピードの謎の天体が太陽系内に入って来たと予想してよいのだ。もちろん冥王星をかすめて、どこか遥かまた太陽系外に飛び去ったことも考えられる。その辺を詳しく言おうかと思ったが、博士の目を見て、口を閉じた。
「そのようですね。太陽系に何にも起きなければいいですね」
 そう言って美枝子を促して、奥の荷物を置いてある方に行こうとした。
「あ、武田博士のお嬢さまですか。お名前はたしか・・・・」
「武田美枝子です」
「失礼しました、美枝子さん。しばらくお父さんとお別れですね。いまお母さまともお話したところですが、淋しいですね」
「はぁ、どうも」
 作り笑いをして挨拶をしてみたものの、生番組とは。ちょっと気恥ずかしくなり、夫人の方に寄って言った。
 リポーターは夫人に向かって、画面は夫人と美枝子の二人を映して、なおも続けた。
「博士はアインシュタインの相対性理論は間違っている、という論文を発表なさって一大センセーションを巻きおこした有名な学者ですが、ご家庭ではどんな方ですか」
「どんなと、申されても・・・・ごく普通の父親ではないでしょうか。この子が小さい頃はよく遊園地などにも連れていったものです」
「そうですか。ところで、噂によると、お嬢さまと茅場さんは恋人、いや許婚とかお聞きしたのですが、暫らくは別れ別れですね」
 誰がそんな、マスコミはすぐあらぬ噂を作る、と心の中で思ってみたものの、それは夫人も認めていた事実なので、
「はあ、でも茅場さんは日本のため、ひいては世界のためのお仕事で向こうにいらっしゃるのですから、いたし方ございませんわ」
 と、考える暇もなく、口に出た言葉をそのまま夫人は言った。テレビカメラは夫人から美枝子、そして茅場の方にアップでパンしていった。
 スタジオから、博士に謎の天体の行方を聞くように指示が出たようで、リポーターが博士に向かって言った。
「理論物理学の学会では大御所であられる藤川教授が、昨日、N大学の天文観測の結果を分析して、謎の天体など無い、冥王星の軌道が少し変化したのは、おおきな彗星か隕石でも衝突したのだろう、というコメントを発表されましたが、武田博士のグループはどのようにお考えですか」
 テレビカメラとマイクがぐっと武田博士に寄った。
「今回の異常事が、そのような一事件であってほしい、これはみんながそう思うところでしょう。とくに観測結果の分析をそういう目でみると、そうなるのが現代物理学の特徴です。いつも言っているように、特に相対性理論がそうです。真理を追求しようとしないのです。いつも観測結果をローレンツ因子で合わせ込もうとします。それで科学者は満足してしまいます。
・・・・藤川君の分析の仕方にケチをつけるつもりはありませんが、わたしの計算では、冥王星はその公転周期が短くなりました。つまり謎の天体は冥王星の公転方向とは逆の方向から侵入して冥王星の軌道を変えたのです。したがって必ずこの謎の天体は太陽系内に入ったに違いないのです。一刻も早くこれを見付けだして、飛来軌道を計算しなくてはならないと思っています。もし、天王星や土星、さらに内側の木星などの軌道をも変化させるほどになったら、地球には図り知れない異変が起きるでしょう。わたしたちは、これから中国政府の要請で、あちらで観測し、データその他の発表もすることになりますが、日本にも優秀な関係機関の天文観測グループがありますから、その活躍を期待しましょう。冥王星の軌道が安定したから、もう安心だというように捉えてはいけないのです」
 カメラに向かって一気にしゃべった博士は<しまった、余計な事まで言ってしまった>と反省したが、もう遅い。汗を拭きながらわざと腕時計を見た。
「武田博士のご一行は時間のようです。謎の天体を早く見付けだすことを願って、ひとまずスタジオの方にお返しします」
 リポーターとその他3人のクルーは素早く機材を片付け、次の取材現場に行くのだろうか、迅速な行動とともに待合室を出ていった。
 一息ついた博士は
「それでは、諸君、見送りありがとう。行ってくるが留守をくれぐれもよろしく頼む」
 と、グループのメンバーを見渡して丁寧に言った。
「はい、わかりました。観測は怠らずやります」
「でも、その結果を計算分析するには・・・・」
「時間はかかるけど、ぼくたちだって大きな変化くらい見付けだせるよ」
「そうだ、その意気だ。判りにくいことがあったら、電話をしてくれればいい」
 と、博士はメンバーを励ました。
 手荷物をまとめた茅場もみんなに向かって言った。
「ほんとにありがとう。重たい観測機材の梱包、大変だったね。昨日紫金山天文台に無事に届いたという報せがあった。さっそく明日から、それらを取り付けて観測に入るよ。先生もおっしゃったように留守をよろしくね」
「茅場さんの方こそ大変だと思うけど、頑張ってね。・・・・白浜さんもね」
 と、例の涙もろい女性研究員がまた大きな涙を流して、白浜の手をとって言った。
 白浜もちょっと胸が熱くなったが、しかし、みんなと別れるのがそんなに辛かったり悲しいことではなかった。手を握り返して、大きく振りながら言った。
「大丈夫よ、わたしは。力仕事はみんな茅場さんに頼むから。わたしが心配なのは食物だけ。ぶたぶたになって帰ってきたらどうしょう」
 またどっとグループのみんなが笑った。美枝子も今度は笑った。何のこだわりもなく、気持ちよく出発させたいという心境に変わっていた。夫人も微笑んでいた。
「じゃ、ここで諸君ともお別れしよう。わたしたちはサテライトの方に行くことにする」
 博士は茅場と白浜をうながして先に歩きだした。
 
 特別待合室を出ると、相変わらず人々の右往左往があった。航空会社のカウンターが並んでいる広い出発ロビーが一望に見渡せるアップフロアには左右に階段がある。みんなは左側を下りた。右側は出発ロビーに入る入り口があるので、混雑しているようだったからである。この出発ロビーは当初は搭乗する人しか入れなかった時期もあるが、現在は出発する人の知り合いである証明があれば、入れるようになっている。
「さようなら。いってらっしゃい」
「元気で」
「修さん・・・・」
 美枝子は茅場の荷物を手渡しながら、一度は顔を見たものの、胸がつまり下を向いて、やっとの思いで声をだした。
「じゃね。行ってくるね。電話する」
 茅場は小さい声で美枝子の耳元で言った。
 夫人も淋しげだったが3人に手を振った。