そのあとは会話も途絶え、ただひたすら前進するだけだった。四人の歩く音が飛空石できた洞穴に木霊する。そうして、どれぐらい進んだだろうか。体感にして十分進んだころ、フィリクスが急に立ち止った。
「ここだ」
そこは今までの一本道と違い、少し開けていて、行き止まりになっている。壁面には何か文字が彫られていた。それはかすれかけていて、線が複雑に行き交うぐにゃぐにゃとした何とも奇妙な字だった。
「確かに、こりゃあ」
「ね、読めないだろ」
「俺は読めないが、見たことはあるな。なあ、サイ、お前なら読めるんじゃないか」
トッドは言って、サイを壁の字が見える位置に通した。壁に描かれた文章を見て、サイはトッドの問いに答えた。
「ああ、うん。読めるよ」
たぶん、というサイの小さな応えはよく通った。それにフィリクスは、ほら、そこどいて、というサイの要求が聞こえていないかのように驚いた。
サイは目の前のフィリクスを押しのけて最前に出ると、壁に刻まれた文字を、己の母国語で声に出して読んだ。
以下がその文章のスケッチである。
白角鹿跨手、後二紅鳥呼従留、青衣呼纏其人、黒犬呼討手留。其背銀乃羽生手、其人並不成、万事二喩出来努。其人曰久……
「意訳だけど。――白き角鹿にまたがりて、背後に紅き鳥を従え、青き衣を纏うその人は、黒き犬を討つ。その背には銀色の羽根が生えていて、えー、その人はこの世の何物に喩うことができぬほど美しい、かな。その人曰く……かすれれて読めないや」
朗々と響くサイの声は、何物にも邪魔されず遺跡によく響いた。フィリクスは驚愕のあまり声も発することができないようで、トッドは通訳をしながら、そんな二人の様子を見ておかしそうに顔をゆがめていた。トッドの通訳を聞いたハーンドも、フィリクスと同じように驚愕の表情になった。
「光は全てのものに等しく降り注がない。風は全てのものに等しく吹き抜けない。闇は全てのものに等しく訪れる」
フィリクスの、茫然としたような声が、サイの言葉を継いだ。
「なにそれ」
「コシンの教えです」
「己信(こしん)?」
「先ほどの言葉には、『信じていれば、きっと空を飛べるでしょう』という言葉が続きます。この世界は斯くも理不尽であるけれど、己を信じなさい、という教えです」
この「空を飛べる」という言葉に関しては、解釈が複数あるが、ここでは「より善く生きることができる」というD・ラミーロの説に則ることとする。
話すうちに、己を取り戻して来たのだろう、フィリクスの言葉は次第に明瞭さを帯びていった。
「違ってた?」
「合ってます。……この字が読めるんですか」
信じられないような声音でフィリクスは問うた。否定する理由もないので、サイはそれに素直に頷く。もともと大して自分を偽ることの娘である。
「ええ、そうだけど」
それを聞いて、フィリクスはトッドのほうに視線をやって、言った。その表情はわずかに引きつっていた。最後尾に立つハーンドが怒りに顔をゆがませているのを見て取ったのである。
前述のように、サイは壁の文字を母国語で読み上げた。それはサイに語学力がないゆえなのだが、とにかく、それが面倒事につながったのだ。
「フィリクス、こやつの言ったことはまことか?」
ハーンドはトッドを指さした。その声は唸るかのようだ。彼はトッドの通訳で事の成り行きを見守っていたのだが。
「よもやフィリクス、貴様、こやつらに『買われた』と申すわけではあるまいな?」
その声は詰問するかのようだった。ハーンドの言葉に、フィリクスは不本意そうに眉を寄せた。言葉は分からないながらも、ハーンドの態度に、サイは眉を寄せた。
「どういうことだい」
「こやつがまことにこの文字(もんじ)を読んだかどうか、俺には分からぬ。『外』の奴らは信用できん、したくもない」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
トッドが呻いた。
「サイはちゃんとそこの字を読んだんだぞ、ならそれはそれで十分じゃねえか。いったいそれの何が駄目だっていうんだ」
トッドの反論に、ハーンドは言葉を詰まらせた。よしなよ、とフィイクスが声をあげる。彼に視線が集中した。フィリクスはそれにたじろぐでもなく、至極冷静に言った。
「ともかく、集会所に戻ろう。結論はそれからだ」
フィリクスの言葉に、ハーンドは不満そうにしながらも、うなずいた。ここへトッドとサイを寄越したのも、偏(ひとえ)に長老の裁量があったからだ。サイの言葉を信じるも信じないも、長老が決めることであった。
そうして、四人は、今度はハーンドを先頭に、元来た道を戻っていった。
「幸運なことであるな、彼の字が読める子を連れてきているなど」
歩きながら、ぼそりとフィリクスが呟いた古い言葉に、トッドは気のない風に、そりゃどーも、と返した。わずかに気持ちの悪い沈黙がどんよりと四人の間に滞った。
「人の頭上で会話しないで下さる?」
「これは失敬」
サイの不満そうな声に、トッドがおどけたように応えた。
「幸運なんかじゃない、トッドは私が読めるのを分かってたんでしょ。だから私が読めないのを分かってて、日誌に『ついてくるな』って書いたんでしょ。……直接言えばよかったじゃないの」
まどろっこしいわね、そう言ったサイの言葉は、常と変らない彼女の母国語であったが、トッドは驚いたように、一瞬身をこわばらせた気配がした。もちろんすぐに歩きだしたが。
「なあ、サイ――。いや、なんでもない」
彼が一体何を言おうとしたのかは、彼自身にしかわからない。サイの聞き取り能力か、それとも。
「……悪かったよ。厄介ごとにいちいち他人を巻き込みたくなかったもんでな」
何かに降参したような口調で、トッドは言った。サイはそれを聞くと、憮然とした態度で鼻を鳴らし、いい度胸ね、と呟いた。