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高雄山神護寺 寺宝紹介

□ 高雄曼荼羅

 現存最古の大曼荼羅であるが、その造立の詳細を伝える記録も願文の類もない。
 唯一の資料が『神護寺略記』である。
 『略記』の引用する『承平実録帳』には天長天皇御願とあり、天長年間(824〜834)に制作が始まったと考えられる。
 大村西崖氏は「太政官符を以って神護寺が定額寺となり、且つ同時に和気氏より大師(空海)に付嘱せられし天長元年に、大師の手によりて成りしもの」とする。
 これは、あまりにも機械的過ぎる見方であるとの批判もある。
 高田修氏は、「安置すべき堂舎すなわち灌頂堂の建立と平行して製作されるのが、むしろ当然であったと思われる」と『略記』にある天長六年を大師伝等を援用して、和気氏の付嘱の年とし、それ以後を密教堂舎建設の期間と考え、天長後半数年間を曼荼羅制作の期間と想定されている。
 しかしながら、元の字と六の字は誤写されることもあり、高雄山寺の充実した天長元年こそ空海付嘱の年にふさわしい。
 曼荼羅制作期間も天長期前半と考えられる。
 高雄曼荼羅は、花と鳳凰を組み合わせた模様を織り出した赤味がかった紫の綾に、金泥と銀泥(金銀の粉を膠でといた顔料)だけで描いた、いわゆる紫綾金銀泥絵両界曼荼羅である。
 彩色はなくとも、空海指導の下に描かれた軽く抑揚のあるのびやかな描線には、唐代絵画の優れた伝統がうかがわれる。
 このような傑出した絵画が描かれた背景について、田村隆照氏は「その熟達した技術はすでに指摘されている如く奈良時代に蓄積された絵画技法や金銀線の描写力にあると考えられ、私には当時弘法大師空海と深い関係にあった東大寺周辺の絵仏師が動員された可能性が強いように思われる。即ち正倉院御物にみられる金銀彩の絵師や工人の技術、東大寺大仏連弁の毛彫りなどに見ることのできるあの表現力である」と指摘している。
 このような由緒ある高雄曼荼羅も、長い年月の間にいろいろな事件に遭遇した。
 神護寺が衰運にみまわれた鳥羽法皇の時代に、寺外に持ち出され、仁和寺から蓮華王院(現在の三十三間堂)の宝蔵に移り、寿永年中(1182〜1184)に後白河法皇から高野山に贈られた。
 しかしながら、元暦元年(1184)、文覚上人の努力で無事に神護寺に返還された。

明恵上人書状
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