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23/07/20更新
『昼下がりの一服』 2004/9/23
月半分の非常勤は4年になる。 手当は分相応だが、経験が活かせる し家で無聊を託つよりも健康的だ。 昼食は大抵、蕎麦屋へ行くかコンビニの握り飯と飲物で済ますが、先日は天気が良いので 少し遠出した。 新富町まで歩き、レストランで食事 した。帰りは、新大橋通りの方へ迂回して職場に戻る途中、道の向 う 側の仮説喫茶店が目に留り、横断歩道へ回り道して其処へ入った。 窓側に客が三人いた。 私はカウン ター席でコーヒーを飲み終ると、席の向うで忙しなく動き回っている小柄で中年の女主人 に話し掛けた。 「隣のビルは、以前は第一勧銀でしたよね」 女主人 「ええ、そうです」と、そっけない返事 。私は更に続けた 「ガードレールのせいで、 向う側からこっちへ渡るには大分回り道になりましたね」 「そうです。でも、ここではよく 交通事故が起りましたから」と話に乗って来た。 私は一呼吸してから言った。 「あのー唐突なお願いです が、私の手作り本をお店に置いて貰えないですか。ネット出品中の小冊子です」 「そういう事したことないですから 、見てみないと何とも・・・」と、彼女は慎重に応えた。 「ドイツ詩人達の短編と女流作家の小説の翻訳です。代金は売れた後で結構です。時々立寄りますから」 すると 、背の高いキャリア風の女性(仮にK女史と呼ぶ)が、窓側のテーブルから声を掛けて来た。 「出版関係のお仕事ですか? 私、出版社に関係しています から買ってもいいですよ。詩が好きですし」 「いいえ、出版には縁がなく趣味でやっているだけです。 今は詩集と短編小説の2冊です」 K女史はスッと立上り、ハンドバッグから皮の札入を出し、名刺と1万円札を 私に渡してから、こう言った。 「私 これから所用がありますから、ここへ送って下さい」名刺にはM生命保険**営業所所長とあった。 私は 「2冊分送料込みで1,400円預りました。5日以内に送ります」と言って、釣銭と名刺代りのメモを渡した。 「それで結構です。では」と K女史は 挨拶し店から出て行った。、 この昼の一時は忘れ難い(了)。
『幼い頃の上京の思い出』 2006/07/09
僕が五歳の時、父に連れられて夜行列車で上京し、亡き祖父の家を訪ねた。それは太平洋戦争勃発の一ヶ月余り後 の一月で、祖父が死んだ直ぐ後だと思う。当時のおぼろげな記憶を辿ってみよう。父は正月に搗いた土産用角餅を入れた 行李を携行していた。 闇の中を走る汽車の汽笛をデッキで聞くと、子供心にも悲しく不気味だった。だが座席につくと直ぐ 眠ってしまい、目覚めた時は朝の新宿駅だった。 それから路面電車に乗り継いだ。電車が九段下辺りの坂道の途中で 止り、車掌が大声で「靖国神社遥拝!」と言った。乗客はみんな最敬礼した。車内は満員で、私は父の手を握って大人の 脚の間に立っていたので体が前後に揺れたが、窓の外は何も見えなかった。神田小川町で下車 し、駿河台三丁目までの 道のりを、父は私の手を取って慣れた足取で歩いた。 そして、しもた屋風の家に着いた。 道路面のガラス戸を開けて玄関に入ると、 いきなり面前に暗い階段が現れたので、びっくりした。 僕には見慣れない光 景だったから。この家には、お婆様(義祖母)しか住んで居ない筈であるが、その時誰が迎えに出て、その後如何したか全く 覚えていない。この不気味な家に数日泊るらしい。 恐らく昼食を済ますと、父とお婆様は、僕を一人ぼっちにして、祖父の葬 儀の事で、お寺さんに出掛けたと思う(父は何処に行くのか事前に僕に話してくれなかったので、よく分らないが)。 曇り空の昼下がり、僕は直ぐ近くの公園の滑り台で一人遊びしていた。人っ子一人居なかった。 そこへ腰にサーベルを下 げたお巡りさんが近付いて来て「おい・・・」と言ったので怖くな った。その 上、ニコライ堂の時を告げる鐘が丁度鳴り出したので 一層怖くなり、急いでその家へ駈け戻ったが、父もお婆様も未だ戻っていなかった。こ の環境の急変に僕の意識が追い付かず、 晩ご飯に何を食べ、お婆様とどんな話をしたのか、全くi記憶がない。更に悪い事に、僕 は寝る前に、掘の浅い炬燵の灰の中に足 を突込み、足を灰まみれにしてしまった。色んな事 が起き、何もかも不気味だった。また母と離れて外泊した事などなかったので、 到頭夜半に「うちに帰るー!うちに帰るー!」と言って泣出した。翌日、お婆様が鉄砲のおもちゃを 松坂屋で買って来てくれたが、 私の機嫌は容易に 治まらず、父をてこずらせた。 この家にいるのが我慢で きなくなった。 書店勤めの叔父(父の義弟)も奥さんも 子供もそこには 来なかった。 僕の初めての上京は、不気味で不 確かな断片的記憶として心に残っているが、証人が皆亡くなって しまった今 では事実を確かめることは出来ない。
それから64年後(2006年7月)、或る用事で御茶ノ水へ行った帰り、地図を頼りに祖父が住んでいた番地を探し歩いた。 聖橋の方へ向う大通りの左側に見える三井住友海上火災の高層ビルの手前を左に曲ると道灌坂という脇道がある。道灌坂入口の 右側は高層ビルの前庭で、そこには樹齢数百年、直径1mを超える楠の大木数本か植わっている。御茶ノ水一帯は昭和20年3月の 大空襲を免れたから、これらの大木は江戸時代には既にその地に植わっていたに違いない。私が五歳の時、父と上京し、一人遊び した公園はこの辺りにあったと思う。今の道灌坂の左側には飲食店や雑貨店が並んでいる。その通りの数十m先に左折する小路が ある。この小路一帯がやっと探し当てた5番地だ。静かなこの辺に何か見覚えがある。祖父はこんな都会の真中に何故住めたのかと 考えると、人の運を感ぜずにはおれない。また上野・正慶寺境内に眠る祖父の墓参りに一度は行かねばいけないと思う(了)。 (注)祖父は42歳の時、若妻と死別。また怪我で家業を諦め、両親、長男(8)、幼子2人を残し上京。官吏の職を得ると再婚し 幼子を引取った。晩年、駿河台で金貸を営み豊かに暮らしたが、祖父亡き後の家庭は次第に零落し今は見る影もない。
『愛猫ピョンが遭遇した事件』 2007/6/13
私達は雌猫2匹とマンション暮ら し。ドラミ姉(13)は淑やかだが、ピョン(3)はお転婆で 姉を追回したり私の足元に纏わり付く。彼女は外へ出たがり、 玄関 ドアを開けると隙間を 抜出し階段を降りるが 警戒 して下の踊場で止る。 この警戒心は彼女の過去に関係ある。2年前の五月、妻が1階ベランダ下 の紙箱の中で鳴いている生れたての子猫(別階段に住む男の子が 外飼していた)を 見つけ、 這出て来た処を抱上げて連れ帰った.。瀕死の状態だから 病院へ連れて行った。体重は380g。 妻がミルクを飲 ませ、炬燵で温め、看病 に励んだ結果、ピョンピョン飛び跳ねるまで回復 。それでピョンと名付けた。 先週末、妻の外出中、私はピョンと階段を散歩。彼女が足元に纏わり付くので、私は手摺に掴まり一歩一歩階段を降りた。 彼女は先に降り2階踊場 で仰け反る。更に一緒に降りる と彼女は途中で止り、階段手摺の隙間から身を乗出し唸り声上げて下の様子を窺う。私は1階ポーチに先に降り「ピョン 降りといで」と促す。丁度その時、1階玄関ドアから出て来た6歳位の女の子が ピョンと鉢合せし「キャー!」と叫び外へ駆けて行った。ピョンはその声 に吃驚して逃げ場を失い、玄関ドアが開いていた瞬間に目の前の 子供部屋に飛込んだ。私は玄関で「家の猫です。追出して下さい」と咄嗟に叫んだ。 そこの親父が捕 まえようと部屋のドアを中から閉めた。中で猫を追い回す音が聞えた。この密室で何が起ったか知らないが、親父は子供部屋を出て ドアを開けたまま奥の居間へ引込んだ。私は玄関口から、ピョンが逃げ場に迷い部屋の壁にぶつかっているのを見た。「上がって連 れてって下さい」と 言う親父の声が奥の方から聞えた。私は、ピョンが廊下に出て竦んだ処を抱上げて外に出た。家に戻 るため、階段を上り2階の踊場まで来ると私の腕 からスルッと抜出し、地上3m以上の高さの階段防護壁を飛越え、右側のその子の家のベランダ柵の横棒(径6cm)の上に飛降りた。ドスンと音がした。 防護壁から手摺まで2m、落差1m 程ある。私は庭に降り て見上げると、彼女は手摺の上に腹這いになり四脚で掴っていた。「ピョン降りな」と呼んだが、 目も虚ろ。捕まえようとしても地面から手摺まで高さ2m程あり、足場もないので上れない。 地面に 飛び降りるのを期待して暫く待ったが身動きもしない。 早く助けねば大事になるから、脚立を取りに家へ戻ったが見当たらない。代りに持って来た丸椅子に乗ると、支え棒が折れてしまった。慌てて管理人室 から借りた椅子に乗り 、やっとのことで彼女を抱上げた。家に戻ると、彼女はベランダに飛出し、隣との境界フェンス下の隙間に 潜り込んでしまった。 日没後に帰宅した妻に事情を話すと酷く怒られた。 ピョンは夜になっても姿を現わさず、翌朝テレビの裏で震えてい た。彼女を病院に連れて行く事にし、 ケージに入れ1階に降りると、それまで無言のピョンが急に鳴き出した。昨日の事を思い出したのだろう。激しい雨の中,車を飛ばす。X線・血液検査 と,注射。 骨折はないという。2、3日通院する ように言われ1万5千円 支払う。早くお茶目なピョンに戻って欲しい。ドラミ姉も私の顔を見上げ心配声で鳴いている(了)。
【ドイツ文学のコラム】 湖南 翻訳・編集
「愛と追憶の短章 」 ヘッセ、ハイネ、シュトルム、他 2003/7/1
海辺の城 L.ウーラント(1787-1862)
君は見たか? 日は 夕凪の海に 「吾は見たり どよもす風と波の音 海辺に聳える高城を 沈 むが如し 海辺に聳える高城を 君に聞こえたか? たな引く金紅の雲 日は夕焼け空に 月 天に懸かり 高楼から騒めく弦と歌を 吹き寄する 昇るが如し 霧 周りに漂u」 君は聴いたか?
「風 や波はみな 君、楼上そぞろ歩む 王と妃は歓喜して 「吾 両親を見たり 深きしじまの中 王と妃を見たか? 日輪の如く眩く 頭に煌めく王冠なく 高楼の弔い歌を 紅の装束なびかせ 金髪美しき乙女を 黒き喪服を纏いたる 吾 涙して聴けり」 王冠煌めく王と妃を? 伴わざりしか? 吾、乙女を見ざりき」
ブロッケンへの旅 H・ハイネ(1797-1856)
太陽が昇った。三番鶏が鳴く頃までに霧が幽霊のように消え去った。私は再びハルツの麓の丘の上に登った。太陽がいつまでも 新鮮で 美しい景色を照らしながら私の前方に浮かんでいた。私の睫毛に付いた水滴が、 谷間の草叢の水滴のように煌いた。朝露が頬を濡らし、 樅の樹の枝がさらさら音を立てて上から下へと揺れ、無言の人も 同じように手を動かして喜びを示した。そして遠方で鐘が、見捨てられた 森の教会の鐘の音のように何とも言えず神秘的に鳴った。ハルツでとても好ましく明るく澄んだ音で鳴ったのは、畜群の鈴と言うことだ。 私がこの畜群に出会ったのは、太陽の位置では正午であった。愛想のよい金髪の若い羊飼が、「あの山が昔から有名なブロッケンです。 あんたはその麓にいるのですよ」と言った。長い時間歩いたが、周りに家がなかった。そ して若者が食事 にしようと誘ってくれたので、私は 嬉しかった。私達は食事のために座り、チーズとパンの弁当を食べた。子羊がパン屑をすばやく掴み、艶々した可愛い子牛が飛び跳ね、 鈴をいたずらっぽく鳴らし、満足がな大きな目で微笑みかけた。私達は豪華な食事をし親しみをもって別れた。、私は上機嫌で山に登った。 間もなく天に聳える樅の林が私を迎えた。・・(以下省略)
「猟犬物語」&「無辜の子供ら」 2004年7月
「猟犬物語」 E.エッシェンバッハ(1830-1916) この作品は、封建制が色濃く残るチェコの山村に住む山番と猟犬が互いに心を通わせ合う物語である。山番が町の居 酒屋でやくざ者が連れていた若い犬に一目惚れし、それを何杯かの酒と交換で手に入れた。その時の酒の名に因んで クラマンブリと名付けた。ブリは荒くれていたが、厳しい調教で従順な猟犬に育った。山番がある事件の犯人を追跡中に、 犯人らしき男に遭遇すると、ブリは主人を裏切ったのか、その男の方へ駆け寄って行った・・。作品の根底に、猟犬への 憐憫の情が流れていて、最後は感極まって涙せずには居れないでしょう。(原本は:佐藤晃一先生のドイツ語読本)。
「無辜の子供ら」 ル・フォール(1876-1971) この作品は、ドイツ貴族の呪われた館に生れ育ち、戦死した父に代って強引に母との結婚を迫る叔父を憎む幼い男の子 が、叔父の犯した過去の罪を知り、終にある日、周到な準備をして叔父を殺す。これは、第2次大戦中にフランスの村で 多くの婦女子に焼殺命令を下した叔父を贖罪させ、犠牲となった無辜の子らを鎮魂する為だったが、自らも神の下に召さ れるという、愛と悲しみを湛え、慰めと美しさに満ちた物語である。舞台は戦後の混乱が未だ収まらないドイツの田舎町。 此処で展開される幼児の観察眼は鋭く繊細である。敬虔なクリスチャンのル・フォールが作品の根底に 漲らせた愛の総て は、読者に強烈な感動を与えずには置かないでしょう。(原本:片山敏彦先生のドイツ語読本)
「ゲーテ との 談話」《抜粋》 J.P. エッカーマン 著 2009/1/10
ゲーテ in ローマ (1787)
1823年6月10日 火曜日 数日前にここに着いた。今日初めてゲーテを訪ねた。 ...(中略).. 家の内部は非常に気持よい印象を私に与えた。 華美という程でなく、全てが上品で質素だった。階段の脇に置かれた様々な古代彫像の鋳造模型は、ゲーテの造形 美術と古代ギリシャに対する並々ならぬ愛好ぶりを示していた。 様々な婦人達が階下を忙しげに行き来し、オッティー リエの可愛らしい息子達の一人も見た。その子は馴れ馴れしく私の処へきて、大きな眼で私を見つめた。暫く周りを眺 めてから、私は愛想のいい従僕と一緒に二階への階段を上った。(中略)彼が一つの部屋を開けると、敷居の前に歓迎 の前ぶれ文字を跨いで入るようになっていた。ここを通り、二つ目の部屋を開けると、彼はここで待っていてくれと言って、 主人に私の来訪を知らせに行った。ここはひんやりして爽やかだった。床に絨毯が敷かれ、赤いソファが一つと同色の椅 子が幾つかあり、明るい調度品が備付けである。側にはピアノがあり、壁には様々な種類のデッサンや油絵が懸かって いた。(中略)まもなくゲーテがやって来た。青い上着を着て靴を履いた堂々たる姿だ!・・(以下省略)
1824年1月2日 金曜日 ゲーテの家で、楽しい会話をしながら食事。 ヴァイマール社交界のある若い美人のことが話題になった。その際、 座中の 一人が、彼女の知性はそれほど際立っているとはいえないが、今にも彼女に惚れてしまいそうだ、と言った。 「へえ!」と ゲーテは笑いながら言った。「恋愛と知性が何か関係あるかのようだね!我々が若い女性を愛するのは、知性のためでは なく、全く別なもののためさ。美しさ、若々しさ、いじわるさ、人なつっこさ、個性、欠点、気まぐれ、その他一切の言いようの ないものを愛しはするが、知性を愛する訳ではないよ。彼女の知性が優れていれば、我々はそれを尊敬もしよう。また彼女を 既に恋してしまっているなら、知性は二人を惹きつけておくのに役立つかもしれないが、知性は我々を燃え立たせ、情熱を起 させるのに適したものではないよ」。ゲーテの言葉には、多くの真実と説得力があった。話題の人物もこうした側面から眺めて みようという事になった。・・・(以下省略)・・・
〈参考資料〉 ゲーテはシュタイン夫人との不自然な愛に十年も苦しんだ末、イタリア旅行(1786/9-88/6)で人生を見つめ 直し再起を決心 し帰郷。その直後、イルム川公園で兄の仕事を請う手紙を渡すため彼が通るのを待っていた クリスティアーネに呼止められた。彼は天真爛漫な彼女に魅せられ、その日に同棲した。これは,シュタイン夫人 との別れに憔悴していた彼には自然な成行きだった。偉大な文豪と貧しい造花工場の娘との身分違いの事実婚 は大スキャンダルを巻起したが、ゲーテは婚姻届を十八年後迄出さず、内縁の侭暮らした(子供5人を授かったが 長男だけが育った)。出逢いから二十五年の記念日に彼は、妻に詩を捧げ愛を示し、三年後の妻の臨終の際、 「私を置いて行かないで!」と泣崩れたという。(引用::高橋容子HP、2004年) シュタイン 夫人
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