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        流祖の意を墨守、矜持      身心舘
甲斐武田家伝武術        新潟に伝承された
武田流抜刀術   夢想神伝流居合

墨守・・・流祖の業と理を改竄することなく守り受継ぐ
矜持・・・流祖の創った流儀を誇りをもって励む

 「口伝/秘伝は人に見せては口伝/秘伝にあらず」
  
                 武田流兵法中興之祖:山本勘介
武田流兵法
 
 武田流兵法の源は、武家社会の始まり時代に武術の達人として名を馳せていた源氏新羅三郎義光です。
甲斐武田家の始祖である新羅三郎義光が体系を完成させ、それが代々家伝兵法武術として継承されてきました。川中島合戦の頃は、まだ流儀や流派というのは皆無の時代であっと云われます。よって武田家始祖:新羅三郎義光の時代からということを考察すると、日本最古の武術の一つとも云われていることがうなずけます。甲斐武田家19世当主武田信玄公時代に召し抱えられた軍師山本勘介により編纂され集大成されたことで山本勘介を中興の祖としています。
   《合気之術》
 現代における合気道の大源流は武田流にあります。
武田家滅亡後、越前黒田藩と会津藩へ伝承され、そこで門外不出のお留流秘伝武術として継承されてきた二流が現代合気道の二大源流といわれます

中国から伝えられた拳法を、朝廷の命を受けた新羅三郎義光によって日本古来の武術の中に取込み、研鑽改良が加えられて、拳法と言う名から時代を経て合気之術となりました

 武田流兵法でいう「合気」とは、複数の技を一つにして発現するという中国の儒学の思想からきた理論で、『気とは大気・大自然・宇宙を表し、人においては精神・肉体を表し、人の身心も小さな宇宙そのものであり、天地精霊の気を授かって実体をなすもので、微妙な均衡を持って天地自然と拘り、万有の物と同源一体で相対している』と説いています。 
 また老子は「道は一を生ず 一は二を生ず 二は三を生ず 三は万物を生ず」と説き、つまり有は無を生じ 無は有を生ず 「無」こそが宇宙であり 有の前に先立って存在するとしています
『合気之術』は、この無が有を生ずるという理論から「働き」と「機能」を出現できるとしています。
 道教では、この思想を気功術へと発展させ、その「働きと機能」は、合気呼吸法と同一で、呼吸法により丹田に気を蓄え、それを力として発現するとしています
   《抜刀術》   
 甲斐武田家は良質な名馬を育てることに秀で、現代の馬に近い名馬を産出し、朝廷に献上していたということが古文書文献から判明かっており 実際に発掘された馬の骨格研究からも分かってきています。 
 甲斐武田軍は騎馬戦術に優れており、戦国時代には騎馬抜刀術や甲冑抜刀術が考案され、甲冑着用時や馬上抜刀時に適した、二尺二寸五分の刀を常寸とし、その利をいかんなく発揮できる術としています。
 武田流武術の根底には「敵に切らせて我敵の首を斬る」の「相撃仕合之事」の理念が流れており、型や形式に拘らず 下剋上の戦国時代では、綺麗事より「生き残れば勝」の利を実証することに重きを置いた特徴が強く見られます
  《棍法/杖 術》
武田流には三尺三寸前後の短棒を使う杖術と六尺〜12尺の棒を使う棍法という武術があります。 杖術は杖(つえ)や傘を用いた護身術として現代に役立てることができます
   


夢想神伝流居合
 夢想神伝流居合は日本国内で普及率約70%以上を占める最も幅広く修行人数の多い流派ですが、同じ夢想神伝流であっても伝承した人物や、地域によって形や型、論理と想定に違いがあり、流祖の創作した源となる夢想神伝流の技とは似て非なるのも在ることは否めません。しかし、いずれも修行者にとっては夢想神伝流に他ならないのですから、夢想神伝流を習う人は、自分が稽古する夢想神伝流は、誰が誰から伝授されて継承されて普及してきたのかを知り、其の理合と想定を正しく受止めて修得することが大切だと思います。
 

流祖:中山博道
 
夢想神伝流居合の祖:中山博道は、江戸末期の三大剣術の一つ、神道無念流を継承、さらに土佐に於いて「無双直伝英信流下村派居合を究め 第16世を継承し、剣道・居合道・杖道の三大範士となり、昭和の剣聖と称されました。流祖:中山博道が生涯において「夢想神伝流免許皆伝師範」免許を授けた者は極少数と云われており、橋本昌直氏はその一人です。
 新潟に伝えられた正統夢想神伝流は博道先生が極められた「直伝英信流下村派居合」の要素と論理が随所に取り入れられているように思えます。
 身心舘で指導している夢想神伝流は、流祖:中山博道第16世から、直門内弟子 橋本昌直(新潟在判)、鹿島神伝直心影流16世宗家剣道範士:「伊藤精司」氏立合いの元で、正統 夢想神伝流第17世師範の免許を、直々に伝授され新潟に広められました。

  



 
正統夢想神伝流第17世奥伝師範「橋本昌直」は、明治44年8月28日新潟市に生まれ、幼時期を北海道で過ごし、13歳の頃再び新潟に戻って母方の桐材商に奉公しました。常日頃から刀剣に興味を抱いていた橋本昌直師範は、その刀研師の所に頻繁に通い、独学でその技を覚え研鑽して20歳過ぎた頃に刀剣研師になりました。そして刀剣研師として東京精養軒で行われた刀剣会に出席した折、当時剣聖と称されていた中山博道先生と出会い、そこでの話に心を引かれて、すぐに博道先生の有信館道場に内弟子入門しました。有信館道場での厳しく激しい修行に励むこと約10年、夢想神伝流居合の奥義を極めて新潟に帰っても、度々上京しては中山博道先生に師事していたとのことです。その頃「檀崎質郎氏をよく稽古場で見かけた」と回想話をしておられたそうです(師:吉田先生談)
 昭和18年、鹿島神伝直心影流16世宗家剣道範士:「伊藤精司」氏立合いの元で、中山博道先生から正統を冠した『正統夢想神伝流居合奥伝師範17世免許皆伝』を授けられました。
 戦後、全日本剣道連盟から好条件の誘いが幾度とあったものの、「中山博道先生より頂いた免許皆伝以外は要らない」と言って、誘いを受けることは無かったそうです
 本業の刀剣研師では、内閣総理大臣賞、総裁名誉賞など数々を受賞されています
 正統夢想神伝流第17世奥伝師範:橋本昌直先生は、新潟に於いて「音なし会」という居合同好者の会を創設し、師:博道先生より「新潟の地で正統な夢想神伝流を広めよ」と云われたことを実践すべく普及指導に努められ、門人の中から全剣連居合道高段者及び範士を多く輩出しました。
 昭和34年新潟県居合道連盟(現:新潟県剣道連盟居合道部会)が結成され、橋本昌直先生は初代会長に就任しました。長年の会長職を退かれた後も新潟県の居合道の発展に尽力され、昭和55年に新潟県知事よりスポーツ功労賞が授与されました。
 現在の新潟県居合道の基礎を築いたのは「橋本昌直」先生と言っても過言ではありません。晩年は小さな居合道場を開き、門人の育成に力を注がれて、平成45月11日82歳 で急逝されました。
 平成10年7月、新潟県六日町美佐島大久寺に正統夢想神伝流第17世奥伝師範:橋本昌直の功績を称えて新潟県剣道連盟居合道会により顕彰碑が建立されました

表には、恩師:中山博道先生から頂いた「修徳守約」の訓言が刻まれ 裏には、〔故橋本昌直先生は昭和の剣聖中山博道先生に就いて夢想神伝流居合を修めその奥義を究めた人であり新潟県居合道会の創始者である。此の碑文は恩師中山博道先生からその秘伝を授けられた折贈られた御揮毫であり此所に橋本先生顕彰の為刻するものである。
平成十年五月 新潟県剣道連盟居合道会〕と刻まれています。
直江兼続生誕の地 坂戸城のあった坂戸山近くの山裾に建立されています。
 
「修徳守約」
 正統夢想神伝流第17世師範:橋本昌直 大先生の
 直門内弟子師範 吉田佶延(新潟在住)
 
師、正統夢想神伝流流第17世奥伝師範:橋本昌直大先生の亡き後、直門内弟子であった吉田佶延師範は、恩師より伝授された技を改竄することなく墨守されており、後世に残すべく夢想神伝流居合を矜持して継承しておられます。
(大先生)恩師と1対1で稽古した日々の回想話や、恩師から聞いた話として、中山博道先生の逸話や檀崎質郎氏をはじめ高弟達の話をしてくださいます。
 新潟に伝えられた夢想神伝流は、流祖:中山博道→橋本昌直第17世師範→吉田佶延直門内弟子師範→成合功次師弟と経緯を辿り矜持継承し、現在、千葉県白井市で門人の育成に励んでいます。
 新潟に伝えられた夢想神伝流の特長の一つに、中山博道先生が第二次大戦下、軍部 大成翼賛会の「頭山 満」より本土決戦用刀術として創作依頼を受けて考案され、江田島海軍師範学校等でも教練されていたといわれる「大日本抜刀法」十本が完全な形で継承され引き継がれています。 
 いつの時代にも掟(約束)を守れない不心得者はいるもので、「口伝」として門外不出である技の動画が、不鮮明ながらも流出していることには憤りを感じます。
 第二次大戦下、直接軍の命を受けて創られ 軍で稽古されていた事実があるのは、中山博道 創作の「大日本抜刀法」だけであるため、博道先生は終戦時、戦犯扱いを受けてしまわれました

 師 中山博道 直伝の正統夢想神伝流居合
初伝
(正座)
大森流 
1:初発刀        7:順刀(介錯)
2:左刀         8:逆刀(付込)
3:右刀         9:勢中刀(月影)
4:當刀        10:虎乱刀(追風) 
5:陰陽進退(八重垣) 11:陰陽進退替業(脛囲)
6:流刀(受流)      12:抜刀(抜打)
 中伝
(立業)
長谷川英信流
1:横雲     6:岩浪
2:虎一足    7:鱗返 
3:稲妻     8:浪返 
4:浮雲     9:滝落
5:山颪    10:真向(抜打)
 奥伝
(座業)
重信流/林崎流
1:霞(向払)1の変業     6:棚下
2:脛囲(柄留)       7:両詰
3:四方斬(四角)3の変業  8:虎走
4:戸詰(三角)4の変業   9:暇乞浅形 手形 深形
5:戸脇      
 奥伝
(立業)
重信流/林崎流
1:行連       6:行違
2:連達       7:袖摺返(賢者之事)
3:惣捲(五方斬)    8:門入(隠捨)
4:総留(放打)    9:壁添(人中)
5:信夫(夜之太刀) 10:請流(受流/弛抜)
 
中山博道考案 直伝 大日本抜刀法
大日本    抜刀法 《基本之形》 五本  口伝

《奥之形》   三本  口伝

《口伝》    二本  秘伝
古流が一子相伝/資質相伝にこだわるのは、大組織化して多数に教授されていくと、その過程において、祖が苦行研鑽の末に創造した技と理合に、勘違いや思いこみなどでズレが生じ、本来の本質が正統継承されないことに対する危惧と、口伝/秘伝の意義を失い、手の内を読まれ敗れてしまう恐れを回避する為と云われます。

技の勘違いや思い込みを防ぐには、技のすり合わせが大切といわれます。
 

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   ーー四方山話ーー

●甲斐武田武術は、何流・誰流など流儀、流派のない鎌倉・室町時代以前から1000年以上続くもので、太祖を清和天皇とし、始祖を甲斐武田家始祖「新羅三郎義光」とする武術です。
ちなみに足利尊氏の祖八幡太郎義家」は新羅三郎義光の実兄です。

●武田流兵法の「武術奥義書」に書かれている技の理論の多くが「また逆も真なり」で締め括られており、技は臨機応変・柔軟性が大切であることを謳っています。そしてその根底には「相撃勝之事」の理論が根底に脈々と流れており、「奥義は、入身と体捌である」と謳い、独特の入身と体捌がら発せられる技に特徴があります。


●武田流兵法は、武田信玄公軍師:、山本管介により武田家家伝武術に管介自身が極めた京流(鬼一法眼流)・築城術・城取術・に、師と慕い弟関係にあった塚原卜伝より授かった卜伝流剣術等を加えて研鑽改良された兵法です。
●「武田流兵法の祖は山本勘助である」と武田軍記「甲陽軍鑑」の中に記述がみられます。
 現代では、「勘助」の字を使いますが、初代は「管介」でした。昔は「音」が合っていれば気にしなかったようで、他に管介・管助・勘介 等の文字が当てられていたようです。
 エピソードとして、『江戸時代初期の水戸藩初代藩主:徳川頼房(水戸光圀の父)は、甲陽軍鑑の中に「山本勘助」の名を見つけ、自分の知っている「山本管介」との文字違いに、わざわざ手紙を送り「本物の管介の子孫か!?」と確かめたうえで、「管介」の「子孫であれば高額で召抱えたい」と申し出ましたが、すでに他藩に士官が決まっていた管介の子孫「勘助」は その誘いを丁重に断ったそうです。
●武田流兵法は、根源太祖を「日本武尊」としていることから、眉唾物と誤解されますが、これには訳があり、当時、始祖 新羅三郎義光が伊勢の地に在して伊勢神道を尊奉していた時に、源氏の学事顧問 大江匡房が中国から渡来した文献を解明させ、それまであった日本武技に取込むよう指示したため、伊勢神宮に祀られている天照大神の弟が、武神 日本武尊であることから、武田流兵法の系図上、日本武尊を根源大祖と拝し、その下に実祖:清和天皇を太祖と尊び、新羅三郎義光を始祖:と敬い仰いだ様です。


●武田家家伝武術は、二大分裂しました。
★今川家に追放された信玄の父 信虎が、上総友翁斎と称し第九子の信友又は信基(三男、信友と同一人物の説あり)]に武田家伝武術を伝授し、信友は実子「勝千代」に伝授、勝千代は武将「石田光成」の計らいで黒田藩へ仕官して伝承し、長い時の中で他流儀と交わり進化し、門外不出黒田藩武田流として伝承されました。
★甲斐武田家滅亡後、武田家家臣「武田国継(「国継」は信玄の親族と云われるが、武田家の系譜資料の中には存在しない)が会津藩に召し抱えられ、門外不出会津藩大東流として伝承されました。

注@太東流伝承者とされる「武田国継」は、武道辞典、武芸流派辞典 (綿谷雪編 人物往来社1963)「大東流」の項に、「甲州武田の遺臣、大東久之助なる者が武田家滅亡後、会津に隠れ、身に覚えのある武田流柔術を、大東流と称していたと云う記述があります。注A新羅三郎義光を始祖とする武田家系図の中に武田国継の名は見当たりません。注B図説日本武道辞典 (普及版) (笹間良彦著 柏書房2003)には、「合気道」の項に「大東流合気柔術は、伝承によると九世紀末の清和天皇第六皇子貞純親王に発するとされ、これが源氏に代々伝えられ十一世紀の終り頃に、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光に伝えられた。義光は「大東の館」に住んでいたので「大東流」と称したといわれる」という記述がありますが、そこにも武田国継についての記述はありません。

1)
 

清和天皇を祖とする武将で、武家政治の基礎を築いたと云われる「八幡太郎義家」と「新羅三郎義光」二人は兄弟であり、その系譜には源頼朝や義経兄弟、新田、武田、細川、吉良、一色、山名、畠山、佐竹、南部、土岐、他に分かれ、その中から武術に優れた人物が多く世に輩出されていることから、武家社会で尊敬され、各地の豪族や氏族が一様に師と仰ぎ、その家臣になることを望んだと云われます。
2)
 武術の流儀や流派の始まりは、乱世が終焉を迎えて平和になり安定しはじめた頃に職を無くした腕に自信のある武術者達が、各国の藩や大名家に指南番として仕官したり、道場を開設して門弟を集める為に始まりました。
 素性や系譜がハッキリしていなければ仕官もできず、また道場を開いても門弟が集まらないことを危惧し、虚偽の先祖や系譜を表示する流儀流派も多くあったようです。しかし、その様にして生まれた流儀流派からも時の経過と共に才能のある武士や剣士・術師が輩出され、確固とした揺ぎ無い流儀流派として全国に認知されていった事も確かなところです。
 江戸時代に入った直後には、全国規模で流儀流派が爆発的に発生しました。その中から優れた実績を残した者や、素晴らしい武勇伝を残した者、新たな流儀流派を起こした者等が育てばその流儀は不動の地位を得ることができました。このようにして幕末の頃には星の数ほどの流儀流派が日本国内に存在していました。
(3)
 

鹿島新当流は剣術の源流とし、古くから鹿島之太刀と称され全国に知られていました。
 後に剣聖と称される塚原 朴伝が第三回廻国修行の時、三河国今川家で今川義元の子、氏真に剣術指導に行った際、今川家に寄食していた山本管介が、朴伝を慕い師弟の縁を結び稽古を付けてもらって以後、親密な師弟関係を結んだと伝えられています。その後管助が武田信玄の下に仕官し、軍師に出世した事を知った朴伝は、伊勢での剣術指導を終た帰り旅の途中、山本管介を労いに甲斐を訪ねました。その際、信玄公は大いに喜び盛大な宴で朴伝を迎え、さらに信玄自身も朴伝と師弟の縁を結び、多くの家臣も朴伝と師弟の縁を結び、剣の指導を受けたと伝えられています。
(4)
  

居合の祖として名高い「林崎重信」も塚原朴伝を訪ねて剣術の指導を受けたと伝えられます。林崎重信は太祖を清和天皇とする源性を名乗る土岐一族であり、足利尊氏系譜の支族という意外なところで武田との接点があります。
(5)
 源 義家は、平安時代後期の武将で、源頼義の長男です。八幡太郎の名でも知られ、初期の武士社会の代表的人物で、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先です。
(6)
 源義光は新羅三郎義光と称し、八幡太郎義家の実弟です。新羅三郎義光は甲斐武田家の始祖であり、その直径子孫19 代目に武田信玄が誕生しています。
(7)


【信玄は7男4女の子持ち
●正室(三条の方)の子には、@義信(長男) A信親[龍宝] (次男)盲目B信之 (三男) 長女@黄梅院 (北条氏政正室) 次女A見性院 (穴山信君正室) 三女B眞龍院(木曾義昌正室)通称、真理姫 (側室(油川夫人)の子ともいわれているが不明
〇側室(諏訪の方)の子に、C勝頼 (四男) 長兄の義信が廃嫡され、次兄の信親は視覚障害、三兄の信之は早世結果、信玄の逝去後、急遽武田家本家の後継者となるも、長篠の戦で惨敗、天目山の戦い後自害(享年37)嫡子信勝も時を同じくして自害、甲斐武田家滅亡 
〇側室(油川夫人)の子に、D盛信(五男) 信玄の意向により信濃国安曇の仁科家を継承。勝頼に仕えて高遠城で祖絶な討死。E信貞(六男) 駿東軍葛山家へ養子に出される。兄勝頼の死後、甲府善光寺にて自刃 C松姫(徳川家康の保護の元出家して信松尼)八王子にて生涯を終える。五女D菊姫(上杉景勝正室)
〇側室(禰津御寮人)の子に、F出家して玄竜と名乗る。安田家の養子に入り、安田三郎信清を名乗る。武田家滅亡後、姉妹の嫁ぎ先上杉景勝のところに身を寄せ83歳くらいまで生きる。
正室三条の方の次男の龍宝は、盲目であったため命を狙われる危険が少なかったが、織田信長は執拗に追った。
  (8)
 現在の武田信玄の子孫は、A信親[龍宝] (次男)盲目の直系子孫で、「武田邦信16世」「武田英信17世(新当主)」が在し、甲斐甲府を拠点に武田家家臣末裔者の会旧温会最高顧問等広く活動しておられます。
大正5年には 武田信玄公の功績を称えて天皇より縦三位を賜っておられます
 (9)信玄公訓言

(9)
信玄の次男:武田信親(龍宝)の直系子孫 武田邦信16世
   武田英信17世(新当主)
 (10)
唐突に!! 薩摩(鹿児島)の示現流の話ですが!!、
40年ほど昔、奇遇にも薩摩の人斬り半次郎「中村半次郎」こと桐野利明の孫!という老婦人と知り合う機会があり、そこで桐野利明の真実の人物像を多く聞かせていただいた時、一般的に伝え語られているいる人物像とはかなり違っていた事を、ふと思い出しました。
その中で印象に残っている話を二、三紹介します。
★桐野の剣術は、薬丸示現流とか、野太刀示現流とか云われていますが、全くの我流だそうです。老婦人が云うには「我が家は大変貧しい下級武士で金銭的に道場に通う余裕は無かったので、半次郎は日々畑作業の行き帰りの途中にあった示現流道場の稽古を板壁の隙間から覗き見て、帰ってきては縄で縛った薪木束や、ぶら下げた木片に木棒でひたすら打込み、修得した我流なんですよ」と話された。
★家にはよく西郷隆盛さんが、『よう!半次郎は居るか!』と遊びに来ていたので、子供達は障子に指で穴を空けて覗き見していたのだそうです。
★「半次郎は人斬り半次郎と恐れられて、何人も人を斬った様に云われていますが、実際に生涯人を斬ったのは一人だけなんですよ。それも今で言う、「正当防衛」で自分を守るためであって、けして語り伝えられているような怖い人では無く、義理人情に厚い優しい人なんです」と話していただいた事を思い出しました。
あの頃にスマホが有ったなら録音しておけたのになー」と残念です。