浮遊選鉱の流用




恵山火山は北海道に分布する14活火山のうちの一つで、
最近では1874年(明治7年)に水蒸気爆発が発生している。
複数の溶岩円頂丘(ドーム)と周麓に広がる火山堆積物で構成されている。 火山

恵山町は西南北海道、渡島半島南東部にあり、
和人の渡道は1189年(文治5年)と伝えられ、
海辺に沿って村落が形成され、豊富な漁業資源の開発が進められた。 恵山町


恵山の火口付近(標高300m)までは舗装された立派な登山観光道路が通じている。
函館・七飯・鹿部に跨る恵山道立自然公園の中央部であり、
津軽海峡を望む風光明媚な場所だ。 観光道路


植生の無い特異な山容の山頂付近。
「硫黄のヤマ」として古くから知られ、その歴史は1764年頃と伝えられ、
採掘の記録が残存する、北海道最古の硫黄鉱山となる。 硫黄のやま


「賽の河原」と呼ばれる付近に位置するお堂である。
恵山の硫黄は地下の鉱物が火山の高熱(116℃以上)により溶融体(ガス化)となり、
噴気孔より噴出・凝固したものだ。 お堂


鉱山跡付近に向けて登る。
硫黄は掘りつくしても、なお噴気孔からガスが吐出している限り、
経年により再び蓄積する。 賽の河原


脇には土管の遺構がある。
文化年間(1846)、嘉永元年(1848)そして明治初期〜中期、
昭和8年〜15年に採掘され、昭和24年からは資本による採掘が進む。 土管


いたる所に硫黄成分を含んだ黄色い鉱石が散発する。
昭和27年当時には月産200〜400t、最盛期の昭和35年頃には月産3.000tを記録する。
製品は旭川や釧路のパルプ・製紙工場に納入された。 硫黄


かなり登ったが目立った遺構は見られない。
昭和初めの精錬の規模は精錬窯3基と焼取釜30基程度が稼行していたようだ。
その後、昭和19年には戦時企業整備令の発令に至る。 製錬釜


木材の断片が残る。
戦争に直接関係のない平和産業に属する硫黄鉱山開発は、
鉱業権、施設整備、資材などがすべて国に徴収され、従業員の配置転換なども推し進められた。 木材



遺構は皆無だが殺伐とした山容は続く。
戦後、壊滅的なダメージを受けた諸工業も、農薬・化学肥料の分野から復興が進む。
原料である硫黄鉱床は農業の復興と共に操業が再開される。 戦後復興


相変わらず遺構は見られない。
中央当初の人力採掘では焼取釜の採算が合わず、
コンプレッサーによる機械採掘の路を模索することとなる。 山容



火山性ガスの噴煙を上げる噴出孔。
当時の恵山鉱山開発者は
銭亀沢硫化鉄鉱山での見学会の際、浮遊選鉱場に立ち寄ることとなった。 噴煙


浮遊選鉱とは鉱石を細かくボールミルで粉砕後、
純粋な鉱物分と不純物を分離・浮上させる選鉱方法で、
浮選後の精鉱は元鉱の3倍の品位となる。 恵山頂上


整備された登山道を歩く。
やがて円筒の圧力窯に鉱石と水を入れ密閉、加熱蒸気を送り込んで120℃、圧力4kにて液化抽出、凝集する
オートクレープとこの浮選による精鉱を組み合わせる生産システムが構築される。 鉱山跡


遺構は皆無である。
昭和28年に完成した「恵山浮選蒸気工場」完成により焼取釜は廃止されるに至る。
安定した経営であったが、昭和34年の米国のフラッシュ法による液化硫黄の採掘は鉱石の暴落をもたらすこととなる。 鉱区


そして昭和42年秋、石油精製工場から公害防止上、
精製過程に産出される副産物である回収硫黄が、
本坑の歴史に終止符を打つこととなる。 硫黄鉱山跡









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