風道の灯




大正3年11月開通、昭和60年廃線の旧万字線美流渡駅跡。
ここから北炭美流渡坑専用線2.8kmが分岐していた。
現在はバスターミナルと小公園となり、静かに保存されている。 美流渡駅跡

かつての美流渡坑専用線に沿って進む。
遺構は見られない。
万字線の利用貨物t数は昭和40年の63万tをピークに昭和51年には7,000tとなってしまった。 若葉町


上美流渡付近では広大な荒れ地が残存している。
遺構は何もないが、未選壜やトロンメルの選炭機などが稼働していたようだ。
度重なる増産で選炭機はローラースクリーン式の高効率の物に変更された。 クチャンナイ


丘の上には石材採掘の施設跡が残る。
炭鉱施設とは明らかに異なるが、
鉱山系の廃祉には違いない。 石材


斜面に残る石材鉱山の採掘施設跡。
かつての炭層は万字炭鉱とも異なり、
夕張層とも違う炭質であった。 廃墟


緑町手前では更に広大な荒れ地が残る。
この先は工業団地と化し、
現役の施設が稼働している。 荒れ地


脇にはRC製の遺構がある。
炭鉱関連なのか専用線の遺構なのかは不明。
更に山中へ進む。 水利


現役の工場下には廃橋がある。
かつては診療所や購買分配所娯楽施設としての、
美流渡会館なるものも存在した。 廃橋


川沿いには石垣の廃墟が残る。
従業員住宅は傾斜生産方式の適用を受け、
融資による社宅や寮が建設された。 炭鉱施設


小中学校の正門だけが残る。
昭和37年の美流渡坑の従業員数は389名。
その暮らしがあれば、子どもの数も相当数だったと思われる。 小中学校



炭鉱住宅の廃墟である。
新設住宅は社内統一標準型が、
1棟10〜12戸建設された。 炭鉱住宅


下りかけた位置で廃線跡である。
中央部の笹薮の築堤が専用線の跡である。
辛うじての痕跡である。 廃線跡



美流渡市街地に戻り、北方を目指す。
明治2年に蝦夷地から「北海道」と改称されたその後、
明治25年に岩見沢から栗沢は独立した。 美流渡市街地


幌向川を渡る。
当初の美流渡は農場開墾から木材搬出で栄えることとなる。
万字炭鉱の開坑した明治42年以降に石炭による繁栄が進む。 幌向川


市街地を背にすると、すぐに炭鉱関連の遺構である。
ここ東幌内炭鉱は大正9年に奈良炭鉱として開坑し、
昭和9年企業化、昭和36年には資本投入となる。 廃祉


春の原野を歩く。
鉱区は二市町に跨るため、
鉱産税の納入設定が、岩見沢市54.4%、栗沢町45.6%と決定された。 鉱区


やがてコンクリート塊が散発する一画があり、そこにはレイルが残る。
巨大な選炭工場や美流渡駅までの25ポンド/30インチ軌道も敷設された。
ピーク時の従業員数は660名と美流渡坑の1.7倍となる。 レール


RC塊が林立する。
専用の炭鉱病院や専用水道、東光会館という娯楽施設、
浴場、理髪所、総合グラウンドまで所有していたことが驚きだ。 コンクリート


水の満たされた一画がある。
パウム主選機で硬炭・二号炭・精炭に分類されていたようだ。
それら水洗原炭の分別施設かもしれない。 パウム選炭


かなり奥まで広大に廃墟が散らばる。
「美流渡地区共同救護隊」がここ、東幌内炭鉱で結成され、
17名に医師と看護師各1名、酸素呼吸器等を装備していた。 遺構群


滝の上から幌向川ダム方面へ移動する。
1971年着工、1990年完成のロックフィルダムであり、
当然炭鉱が稼働していた時期には存在していなかったダムだ。 遺構群


ダム下流には有害駆除の動物用わなが存在する。
クマ檻は時々見かけるが、
こういった罠は珍しい。 有害駆除


その奥では予想外の風洞坑口である。
日の出坑、曙坑、東栄坑、北坑と4か所の坑道の記録があるが、
それらに繋がる対偶式の通気施設であろう。 風道


恐らくシロッコ型の扇風機等が接続され、
坑外に数キロワットの電動機を敷設していたのだろう。
または圧縮機(コンプレッサー)等を設けて坑内に送っていたかもしれない。 扇風機


ダムの湖畔を進み、岩見沢領域の北坑方面へ向かう。
昭和12年には鷲の沢上流2kmに取水ダムを設け、
炭鉱専用水道として一部の世帯に給水したそうだ。 ダム湖


坑口付近に向けて、林道を遡る。
衛星写真では治山の跡があり、
おそらく痕跡は少ないかもしれない。 グラベル


鉱区付近は明らかに植林・治山され、
遺構は皆無だ。
専用線も旧地形図にはあるが、それらも発見には至らない。 植林


昭和40年代に相次いで閉山した炭鉱群。
美流渡地区の人口は昭和35年12,287名、ところが現在はその5分の1以下となってしまったが、
街には陶芸家や自然食の店が根付いてきているようだ。 花









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廃墟群
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