昭和37年 貿易自由化がもたらしたもの
戸井市街地から津軽海峡を望む。
付近の分水嶺をなしている山々は海抜400m
程度の低山であるが、
分水嶺から海岸まで8km足らずと、急傾斜の渓谷をもつ各河川となっている。
武井ノ島を望む、熊別川の最下流。
ここから約2km、海抜150m付近が鉱山跡のはずだ。
山中へ進んでみよう。
近代的で大きな小学校がある。
どうも寂しい雰囲気だが、熊別川に沿って更に登る。
付近以降も舗装路が続く。
街を過ぎると突然のグラベルである。
ダブルトラックは固く締まり、重量車が走行したのだろうか。
とすると上流域にダム等の工事現場や採石所、産廃処分場などの存在が想像される。
林道脇には廃墟が現れた。
ブロック組で鉱山関連の遺構かはわからない。
水利関係か資材庫のような存在かも知れない。
上流の鉱山跡付近で建物の土台跡である。
これは鉱員住宅等の痕跡であろう。
恐らく木造の建屋が存在したと思われる。
上流には更に巨大な廃墟も存在する。
これは紛れもなく鉱山関連の施設だろう。
木々の存在から昭和30年頃の遺構かもしれない。
火薬庫跡に近い右岸に形状の残る廃墟がある。
目的は解らないが、鉱山のほぼ入り口に存在する。
これは予想外の大形物件だ。
左岸にもRC製の廃墟が林立する。
これはどうやらホッパー関連の施設だ。
昭和35年当時は国富鉱山にしか精錬所が無く、それは道内鉱山の問題となっていた。
更に水利関係の廃墟が続く。
精錬所はその資本系列の関係鉱山の自社鉱の処理が優先されるので、
他は遠く直島(香川県)、細倉(宮城県)、村上(新潟県)などに送鉱されることとなる。
砂防ダムのある澄んだ熊別川上流域。
ここから火薬庫、そして坑口方面に向かう。
いよいよ鉱山中心部に入る。
しかしながら鉱山跡メイン施設付近は産廃処分場となっていた。
現在は使用されていないようだが治山の跡が見える。
坑口方向に進んでみよう。
火薬庫付近は治山され全く痕跡は見えない。
当時の日本は自由主義経済諸国間で銅生産量第6位、消費量も4〜5位であったが、
量的には4%程度の少量に過ぎず、経済の底の浅いことも影響し、市況変動幅は海外のそれより大きかった。
これはどうやら沈殿池の跡のようだが、
産廃施設の付随設備のようだ。
所々に人工物は存在するが、それらはすべて近代的な施設でしかない。
坑口の存在したはずの鉱床付近に到達したが、
そこは大規模に治山され、当時と大きく様変わりしているようだ。
中央の施設は地下水関連の地滑り調査設備のようだ。
マダニが袖口に付着している。
いつも探索では数匹が服についている。
死亡事故も発生しているので、よく留意し払うようにしている。
熊別川を跨ぎ、鉱山へ通ずるアーチ橋である。
昭和33年鉱山局は国際商品である銅・鉛・亜鉛・ニッケル等の需給を安定するために、
「重要鉱産物需給安定特別会計」の設置を提案したが、それは不幸にして成立には至らなった。
銅鉱山は市況の変動影響を受けやすく、生産業者の操業基盤は著しく不安定となり、
特に海外水準に比較して不利な条件にある国内資源のみを採掘している鉱山業者は、
採算困難から休廃止に至るケースがままならなったようだ。
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