廃祉と治山の側面




渡島半島南端の戸井町には、五稜郭を分岐点とした鉄道予定線があった。
昭和12年着工の戸井線は昭和16年12月の太平洋戦争勃発により頓挫し、
下海岸の鉄道敷設という夢も儚く、現在は未成のアーチ橋やピアのみが残存する。 戸井線

釜谷町北方から運賀川沿いの林道を進む。
目指すは標高200m付近。
遺構が無いか周囲を確認しながら登る。 運賀川


上り坂が急になる頃、左岸に木材の散乱個所だ。
木造の小屋があったらしく、
林業でなければ鉱山跡に接近したこととなる。 小屋跡


付近では一気に遺構が増加する。
ここには腐食したドラム缶や人工的な木材が散らばる。
ここからは注意深く、山中を探索する。 廃祉


林道から外れた山中に4t車程度の荷台が朽ちている。
しかも横根太は地面に強固に固定され、何かの基台かのようだ。
恐らくウインチ等と組み合わされた簡易な架空索道のベースであろう。 根太


ここを緊張停車場とした索道の起点で間違いない。
するとこの延長が鉱山の採掘場跡となる。
地形図上の推論した位置とも合致する。 索道


運賀川上流域を渡渉すると、
そこには80A程度の鋼管が埋没している。
これは紛れもなく鉱山跡の生き証人であろう。 鋼管


そして現れたのはRC造の建築物である。
この重厚な建築は火薬庫に関するものかもしれない。
飛散物の被害はおよそ100mに及ぶため、保安距離からもこの位置は防爆の意味が大きい。 遺構


周囲には安全地帯を設け、
その構造も法令で詳細に指示されている。
扉のようなものも見える。 火薬庫


火薬庫自体の爆発事故は非常に稀であるが、
盗難事件に万全を期す意味でも、この扉の意義は大きい。
貯蔵爆薬が20tとなると、その保安距離は440mとなる。 扉



対岸には鉱山跡特有の赤い鉱水を流す沢があった。
この上流域がおそらく坑口であろう。
火薬庫跡を背に登攀してみよう。 鉱水


今度は坑口に向かい、東方の斜面を登る。
斜面を巻きながら、赤い沢上流を目指す。
銅・鉛・亜鉛鉱床の中心部を歩く。 掘割



カタクリの咲く斜面を歩く。
付近には銭亀沢鉱山、土屋石崎鉱山釜谷鉱山、そして本坑の四鉱山が稼行していた。
その中で最も最近まで採掘していたのが本釜栄鉱山となる。 カタクリ


鉱山道路のなれの果てのような古道を進む。
方向的には先ほどの赤い沢と結ばれるはずだ。
今はエゾシカの通り道となっているようだ。 鉱山道路


やがて赤い沢沿いの谷に出た。
ここはU字溝で治山され、水質保全の工事が施工されたようだ。
すでに廃道状態だが、更に登攀する。 鉱水


上流域には砂防ダムが現れ、
かつての鉱山跡から吐出する廃水や汚泥を堰き止めるのが目的だろう。
赤い沢が道案内をしてくれるが、GPS等での位置確認を怠らない。 砂防ダム


赤い沢の交差部分だ。
右(南)手方向と正面(東)方向の分岐だ。
まずは正面を目指す。 交差


その延長の突き当りの斜面だ。
斜面から流出する水流。
ここは塞がれた坑口で間違いないであろう。 坑口跡


南方向へ向かうと再び別の砂防ダムが出現した。
かつてはその鉱毒により、
鮭、鱒などの遡上が一時消滅したとの記録もある。 砂防ダム


その上流には開けた一画がある。
ここには鉱山施設があったとしてもおかしくない広さだ。
更に上流を目指す。 鉱山跡


赤い鉱水が斜面の一角から流出している。
ここが第二の坑口跡であろう。
位置的にはこちらが新一番坑だと思われる。 坑口


歴史的に稼行は25年間程度だが、
現代の技術で治山された鉱山跡。
大規模な遺構は無かったが、これが現状の姿なのかもしれない。 鉱水







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