噴火口を思わせる巨大露天掘り
古武井 日ノ浜周辺を望む。
恵山町は渡島半島東部の亀田半島南東部にある。
冬季積雪量は50cm以下の「非雪国」である。
日ノ浜北方から林道を進む。
北工古武井鉱山の脇を抜ける。
鉱山跡までここから約13km、標高差530mである。
かつての馬車軌道跡の林道を遡る。付近のみ複線で、
薪材集荷所が存在し、最大60〜90基の焼取釜を維持するために、
膨大な材木が必要だったようだ。
牛舎の沢付近で石垣が残存する。
付近では牛が15.6頭飼育されていたようである。
古武井川は支流が多く、小河川でありながら景勝も見られる。
大正3年(1914)頃操業の青盤精錬所跡である。
植生の無い一画があり、ここには焼取釜17基が運用されていたようだ。
押野鉱区で青盤・中小屋・旧山の精錬所があり計33基の釜が確認されている。
硫黄鉱石のズリである。
山縣鉱区(古武井鉱区)の釜数は不明であるが、生産額からすると、
押野の5,061tに対し5,674tと遜色なく、釜数は33基以上存在したと推察できる。
上流のひょうたん池付近。
明治43年(1910)の産額は押野・山縣総計で23,000t余りとなり、
これは明治38年の2倍に達し、逆算すれば最盛期の焼取釜は90基に及ぶ。
女那川に向けての架空索道跡も、明治36年には廃止された中小屋精錬所跡も発見には至らない。
焼取釜の原理は炊飯と同様で、この逃げる湯気を冷却し硫黄を採取する。
この付近で林道は決壊し乗用車での走行は不可となる。
いよいよ大規模に倒木し、ここから片道5kmの徒歩となる。
焼取釜は直径1.5mの鋳鋼製釜を製錬炉(=釜)の上部で加熱し、
気化した硫黄ガスを導気菅を通して沈殿器にて冷却することで生産する。
痕跡の無い馬車鉄道跡を歩く。
釜の数は炉1基に対して約10〜14枚、1年で消耗するので釜の手配は90炉×14枚=1,260個となる。、
釜600kg/個として年間600t以上の鋳物が古武井鉱山に供給されていたこととなる。
しばらく登るとパンチングの橋梁がある。
地理的には不便な山間であったが、行商人が多数出入りし、
この先には「暗渠商店街」なるものが存在した。
中央部はグレーチングが敷き詰められた橋梁。
結構な高さがある。
恐らく治山の際の工事用車両通行のために敷設されたようだ。
暗渠商店街付近に残る遺構。当時は20店舗が軒を並べ、
生鮮食料や日用雑貨・呉服・饅頭屋など生活必需品だけでなく嗜好品も取り扱っていた。
鉱山には購買部は存在せず、しかし大蔵省認可の「ヤマ札」が発行流通していた。
小滝楼とよばれた料亭付近だが遺構は見られない。
提灯で美しく飾られた二階建ての豪華な建物だったらしい。
芸者の三味線が流れ、陸軍伍長と鉱山関係者の打ち合わせ等にも利用されたようだ。
倒木は幾か所にのぼり、廃道化が進む。
スタートしてすでに1km以上歩き、時間的には30分だ。
当時の硫黄総輸出量の80%が北海道から、そしてその60%が押野鉱だと言われた。
ヒグマ注意喚起の看板である。
ここまで入山する人間も少ないだろうが、
単独行のため熊鈴・爆竹・ホイッスル・ラジオを鳴らしての探索だ。
馬車鉄道が難儀した「長坂」付近である。
古武井川左岸が押野鉱区、上流右岸が古武井硫黄(山縣)鉱区となる。
(参考地図は下部)。
「七曲」から「大滝」付近の大崩落である。
左ムサ沢の山縣鉱山と右ムサ沢の押野鉱山は地表では境界があっても、
坑道はまるで迷路だ。地底で干渉してもそれはいざこざにはならなかったようだ。
鉱山病院跡あたりでようやく明確な遺構である。
これは軌道の痕跡のようだ。
馬車軌道13kmの支線として、450〜600kgの人力鉄道が総計8kmに渡って埋設されていた。
大正坑近くの廃橋梁。
廃橋となった以後、林道として渡川するルートが標準となったようだ。
単身者用飯場が付近に存在し、職種別に12棟があり各40〜80名を収容できたとのこと。
鉱山跡に付き物の瓶の遺構が埋まっている。
暗緑色のウイスキーのボトルのようだ。
鉱山神社の祭りの夜は盛況だ。東京大相撲の地方巡業もやってきたというから驚きだ。
林道の先から先客である。
あの白い顔はエゾクロテンだ。雑食性の小動物だが何か咥えたまま急いで逃げて行った。
と同時に鼻をつく異臭である・・・この匂いは間違いなく・・・。
その異臭の元はエゾタヌキの亡骸であった。
エゾクロテンはこれを狙っていたのだ。
恐ろしいが自然の摂理、自分たちも同様である。
更に登りスタートから4.5km地点。
ここは一気に人工的な雰囲気がある。
第一精錬所に近い。
やがて耐火煉瓦が折り重なる一画に出た。精錬所跡に到達だ。
当時、煙突から黒煙が吹き、熱気の中、多数の作業者が精錬作業に従事し、
精錬所それ自体が生き物であるかの様だった。
深い山中に立派な石垣だ。
硫黄の気化点は445℃であり、硫黄ガスを沈殿管で冷却、液状硫黄を受釜で沈殿冷却する。
それを型缶で塊状硫黄に凝結すれば製品となる。
押野鉱区に入り、遺構が増加してきた。
1,200人を超える労働者、3,000人を超す集落を展開したものの、
人の出入りは激しく僅か20年程度期間の盛衰である。
廃村に残るエゾシカの頭部だ。
明治43年(1910)の山縣/押野の人口数は1,137名。
当時の尻岸内村の人口が4,933名。つまりその23%を鉱山が占めていたこととなる。
そして明確な遺構に到着した。
煉瓦とRCで構成された焼取釜の遺構である。
恐らく炙り煙道から鉱石乾燥場付近の遺構であろう。
煉瓦は多少崩れているが、約70年の歴史である。
製錬の当初は玉石を粘土で固め、魚粕を煮るような釜を合わせて使用していた。
これは高熱で釜が破裂し、硫黄が炎を上げることもあった。
燃焼のため周囲の森林は根こそぎ伐採され、
それでも足りないため、女那川の西部の森林から木材を運搬するため、
玉村式架空索道(=鉄索)が建設された。
更に上流の山縣鉱山へ向かう。
その先は巨大な砂防ダムが君臨している。
昭和48年度、道で施工された復旧治山工事だ。
その上流では更に巨大な砂防ダムが出現した。
こうなると恐らく山縣鉱山側の遺構は皆無であろう。衛星写真の砂防ダムとも一致する。
しかしこの上流域に大規模な鉱山が稼行し、わずか20年程度の期間と言え3,000人の暮らしがあったのは事実である。
砂防ダム堤頂からの鉱山跡である。
資本投入による大規模鉱業の先駆者として、また近代化産業の発展、
外貨獲得に大きな貢献をした古武井硫黄鉱山は山中でひっそりと余生を過ごす。
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