水銀精錬所の移設




同村は後志火山群の中で赤井川カルデラ底とも言われる盆地だ。
地質構造からカルデラではないとの見解もある。
今回は国道393号線白井川沿いを探索する。 赤井川村

常盤ダムの下流3kmに平成13年に完成した落合ダムである。
立ち枯れた木々が美しいロックフィルダムだ。
ここから更に下流へ向かう。 落合ダム


鉱山跡に建つペンション付近から東方を望む。
植生の無い大きな崖状の露天跡が見える。
あれが本坑付近のようだが、現時点では眺めるだけだ。 本坑


まずは釣り堀から東南の山中へ入る。
4月下旬とは言え、残雪の釣り堀にはルアー客がいる。
この奥にはかつて神社があり、火薬庫や駐在所もあったようだ。 釣り堀


廃道と化した鉱山道路のなれの果てを歩く。
社員住宅や共同浴場があった付近だが、
既に痕跡はない。 鉱山道路


そして到達したのは煉瓦製の遺構である。
道路から離れ、崖に閉ざされた谷間にある廃墟は、
恐らく火薬庫であろう。 遺構


火薬庫の重厚な廃祉だ。
坑道採鉱時には上向き階段法を用いた。
銅の含有量が5%以上のものは上鉱として国富鉱山に売鉱した。 火薬庫


廃道を進むと、建物跡の辛うじての痕跡がある。
かつては尋常小学校もあり鉱山児童を収容した。
更に山中を進んでみよう。 廃道



明らかな建築物の痕跡である。
診療所には鉱医が常駐し、診察代は不要で薬価のみであったそうだ。
隣の轟鉱山へも鉱医は出張診察を行っていたようだ。 痕跡


目立った廃墟は現れないが、人工的な施設跡が点在する。
物品配給所があり、主要な日用品はすべて揃ったそうだ。
狭い場所に軒を連ねて並んだ街並みを想像する。 廃墟



藪に残る廃車体である。
これは1957年デビューの日産キャブオール2t積みの二世代目、
1967年以降車のC240型だ。 キャブオール


1960年代は貿易自由化を前にオート3輪の撤退など、
自動車メーカーにとっては再編を含めた激動の時期だ。
乗用ベースのピックアップタイプとキャブオーバー、ボンネットタイプが混在する時期でもあった。 日産


コラム式のフルシンクロの4速ミッション。
ヘッドレストは無く、サイドマーカーも小型のものなので、
恐らく1971年以前のモデルのようだ。 ハンドル


轟鉱山の際にも紹介したが、
煽りには「轟鉱山」の文字が・・・。
メーカー合併の影響で同クラスの「フリッパー」と併売されたのは事情かも知れない。 轟鉱山


ドアに残る銘板。
もしかするとこれは轟鉱山のロゴかもしれない。
この車両はガソリン車らしく、セドリック用のエンジンのようだ。 ロゴ


トラックの付近にも大量の廃材が朽ちている。
変電所も存在し、工作場も充実していたようだ。
鉄工所・製材工場で諸機械の修繕/製材も稼行したようだ。 資材


付近にはボンベが残存している。
茶色いのでアセチレンかと錯覚したが、
恐らく酸素瓶の腐食のようだ。それでも圧力は14.7Mpa、つまり1cm四方に150kgfの力がかかっている。 酸素瓶


昭和37年10月竣工の古い橋から森へ入る。
この奥には飯場が4棟並び、倉庫、木工場、事務所、精錬所と続く。
つまりは鉱山跡の中心部となる。 橋梁


明らかに治山され、かつての鉱区に植林されたであろう森である。
ここからはテープマーキングを行い、GPSで遭難に備えての探索を行う。
鉱夫の皆勤、精勤者には毎月賞金を配布し、勤続者には年末ごとに皆勤賞を支給したそうだ。 杜


森の中には遺構が出現した、
選鉱は自動傾斜軌道で機械選鉱所に送る。
2/5/9mmを境に精鉱・捨石・片刃に選別する。 遺構


鉄索道用と発電用に15馬力/40馬力の機関が設置されていた。
遺構はあるが既に用途は解らない。
もう少し森を進んでみよう。 廃祉


森に隠れるように存在するレイルである。
高さは65mm程度なので9kg級だろうか。
軌間は大きくずれているようだ。 レール


更に北へ進む。目的地は実はここではない。
毎年1回山神祭が行われ、演劇や活動写真の無料上映、
そして有益な講和の席などが開催された。 鉱山跡


エゾシカの頭蓋骨と角である。
付近はほとんど人の入山が無いようだ。
エゾリスも慌てて逃げて行った。 エゾシカ


お分かりの読者様もいらっしゃるかと思うが、目指す頂である。
この先は完全廃道となり、滑落、遭難、獣害が伴うため、
入林はお勧めしないし、十分な装備と経験が必要となる。 鉛坑


積雪で押された植生のこの時期を選んだのはこのためだ。
今回も単独行のため、間違いなく同じ帰路を通るように、
ピンクテープをマークしながら歩く。 鉛坑


ムリそうなら即撤退も考慮に入れる。
下るときは、登れるかどうか?
斜面は基本高巻きし、臆病に慎重に進む。 廃道


ようやくあの斜面が眼下に見下ろせる位置に来た。
坑口の存在も資料にはある。
体中のあらゆる箇所が藪に引っかかり、非常に歩きにくい。 斜面


長い時間かかり、なんとか斜面の下死点に到達した。
付近には水溜めがあったそうだが、
もはや痕跡はない。


ここからは滑落に留意しての登攀だ。
意外に足元は締まっており、崩れるようなことは無い。
坑口を探しながら登る。


斜面には幾筋かの沢がある。
この部分は粘土層でどんどん崩れるので要注意だ。
スタート地点の標高が200m、現在が220mだ。 沢


白井川を少し見下ろす位置まで登攀した。
下には国道も見える。川沿いに派手なジャンパーの数名がいるが、
まさかこんな所を登る人間に気づくこともないだろうと更に登攀する。


雪解け水が降りかかる斜面を登る。
岩石は大きく崩れることもなく、
しかし抜重しながら登攀する。現在の標高は250mだ。 ガレ場


正面のピークは398m。
白井川はいよいよ下になり、国道を走る車も小さい。
当時は社所有の森を開放し、鉱員に燃料木として伐採を許可したようだ。 キャニオン


セルフの自撮りもこんな場所では大変だ。
カメラが落下しないかヒヤヒヤする。
やはり下の人が指差しているようだ。


先ほどから流れる水に硫黄臭があることに気付いた。
一応水温を計測したが、15.2℃と冷泉の可能性もある。
現在の標高は一気に300m。 温度計


いよいよ上部にはオーバーハングの崖がせり出している。
坑口の発見には至らなかったが、このピーク(標高320m地点)で撤退しよう。
高所に耐性が無いと足がすくむ高さかもしれない。


眼下には小さく数名の人だかりがある。
スイスイ下って森を抜けて戻ろう。
帰路はピンクテープを辿ればいい。 ピーク


一気に降下すると道々に数名の外国人が・・・。
登る自分をスゴイ、早いと大きなゼスチャーで驚いてくれた。
オーストラリア人の彼らは日本語が話せないものの、かつての鉱山であることを伝えて握手して別れた。 オーストラリア人


彼らと別れて別坑の55m坑付近。
ここは轟鉱区のようだが、明治にも近い。
斜面にあるはずの坑口を探索してみよう。 オーストラリア人


ここは自然の地形とは思えない崩れた景色だ。
恐らくここが埋没した坑口のなれの果てだろう。
今回は坑口の発見には至らなかった。 55m坑


藪に埋もれてレイルが残る。
三度の休山、10棟の長屋に90戸、377人が暮らした鉱山跡。
今はもう森に還ろうとしている。 レール







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ダットサン
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