エドワードパレーの功績
紅バラ色の結晶粒の荒いものは、
菱マンガンと言われる代表鉱石であり、
特徴的なのはカルシウム分に富んでいたこと。
Mn含有が30%以下でも、それは取引の対象になったと言う。
鉱務所と繋がった精錬所の上流には、
万盛坑、金盛坑など4箇所以上の坑口の記録がある。
遺構を遡り、
これら坑口に入坑してみたい。
積丹半島を貫く当丸峠には向わずに、
深い山中を登る。
砕石所を超えると右手に遺構が現れる。
荒れた林道をどんどん遡る。
古平の鉱業は明治13年(1880)茅沼炭鉱の雇員エドワード・パレー(英国人)の、
山越え視察に端を発するとされる。
突然右岸にコンクリートの遺構が現れた。
岩内港の冬の荷役は困難を極めたのに対し古平港の安全性は高く、その調査のため
パレーは冬季に茅沼炭鉱から山越えを行った際、遭難し杣小屋で九死に一生を得て、付近で拾った鉱石鑑定を行った。
川を渡渉し、
精錬所らしき廃墟に近づいてみよう。
水流は激しい。
RC構造でホッパー部分もある。
これは製錬の施設で間違いない。
更に近づいてみよう。
一部RCは剥がれているものの、
状態は良い。
時期が新しい施設のようだ。
崖下には貯鉱場が続く。
かなりの高さだ。
上部の選鉱施設には、
大きな亀裂がある。
内部には型枠のような、
鋳型のような円柱が多数棄てられている。
上流にはレンガの遺構がある。
金銀から始まり、マンガンに移行したことも起因しているかもしれない
これも精錬所のようだ。
レンガが重厚に組まれた施設跡。
新旧の精錬所かもしれない。
レンガの塀が連なる、
旧施設付近を歩く。
斜面に沿って上へ続く。
斜面にはレイルが・・・。
かつては軌道があったのだろう。
その先には鉱車がある。
グランビー型のトロッコだ。
排出場所でトロッコがガイド部に乗り上げることで、
荷台部分だけが傾斜して、積載した鉱石を落下させる方式だ。
100A程度の太いパイプが走る。
腐食激しく、
廃坑ならではだ。
森の中に人知れず、
多くの遺構が眠る。
斜面に段々と施設がある。
更に上流には、
電信棒や鋼材の遺構が増えてくる。
採掘の進んだ禿山が見えると、
いよいよ鉱山跡の、
中心部だ。
林道が廃道となると、
川は荒れ、
エフレックス系の太いチューブで導水してある。
毎年の雪解け水で深く侵食された川の岸に、
いかにも鉱山跡の
小屋が二軒現れた。
一方の小屋はスレート製で、
内部は何も無い。
川岸に建っている。
もう一方の小屋は木造だ。
川に飲まれるのも、時間の問題のようだ。
付近にはレイルや鋼材が散在している。
昭和59年の閉山まで
ここには明治からの歴史がある。
ふと対岸を見ると、
散乱した部材の間に
黒い穴が・・・
(カーソル画像上でハイライト表示)
近づくとはたしてそれは坑口であった。
金盛坑だろうか。
かつては山裏の大江然別鉱山の坑道と、
接続していたとの証言もある。
それでは、坑道に突入してみよう。
狭い穴に降りる。
奥はどうなっているのか・・・。
坑内はひどく水没しており、
しかし、支保工もしっかり残存している。
羽虫も多く、環境は良くない。
いきなり深い。
股下までの水位があり、
泥も深く脚が重い。
水は澄んでいるが、歩くたびに泥が攪拌され濁る。
電球が割れずに浮いている。
見えないが、どうやら中央に板があるようだ。
10m程度で埋没し、奥へは行けない。
最奥まで支保工は立派に残っている。
中央の板を踏み外すと、恐ろしく汚泥が深い。
まるで水中の見えない平均台を歩いているかのようだ。
最奥から振り返ると、坑口に差込む日の光が見える。
電球がぶら下がっている。
水圧に耐えながら、坑口に戻る。
坑口周辺には変圧器のような、
箱がある。
奥の小屋といい、廃坑跡らしい風景だ。
変圧器はかなり巨大。
棄てられてから、かなりの時間が経っているようだ。
稲倉石鉱山の金銀は鉱脈が同じであり、当初は然別鉱山で委託製錬を行っていたらしい。
その後、産出高の増加に伴い自社精錬所で稼働したと言うが、大正3年(1914)からはマンガン鉱として繁栄した記録がある。
日露戦争後の金暴落を起因として、鉱脈転換したとされるが、
結局のところ稲倉石-然別の坑道貫通は未だに謎のままだ。
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