馬鉄の峰越隧道 夢の跡
高さ51mを誇る奔別炭鉱を象徴する竪抗跡。
最深部は1,100m、建設費は現在の価値で200億円。
圧倒の迫力だが、今回は更に上流の小さな炭鉱を目指す。
奔別橋の手前左岸に遺構が見える。
付近の谷にはかつての橋跡がいくつかあるが、
どれも現在は渡れない。
奔別川にはアバットや護岸の廃祉が横たわる。
深さもそこそこあり、
11月の水温は0度に近い。
橋が無い以上、渡渉するしかない。
深さは膝上を超える場所もあるが、
ネオプレーン素材の靴下で冷たさはあまり感じない。
これはおそらく清滝橋の遺構だろう。
かつては往来があったのかもしれないが、
今はその見る影もない。
川岸の上部にはRCの廃墟が見える。
大正6年廃坑とかなり古い遺構のようだが、
上部に遺構はあるのだろうか。
登った丘の上にはいきなりの廃墟である。
この四角の桶のような遺構はなんだろうか。
しかも点々と少し離れて存在する。
こちらはもしや便所の遺構ではないだろうか。
昭和の色合いとはすこし違う、
大正時代の炭住跡かもしれない。
点在する遺構を縫って、
更に奥を目指す。
どうやら炭住街で間違いない。
これは風呂の廃墟かもしれない。
止水栓のようなものもある。
大正時代に建設され、昭和の時代も使われたのだろうか。
炭住街の下流には少し大きな廃墟も見える。
ホッパーか選鉱所のようだ。
接近してみよう。
ここは恐らく2階部分で、
かなり埋没しているようだ。
やはりこちらも昭和の雰囲気とは少し似て非なる佇まいだ。
正面の入口内部。
小部屋となっているが、
荒れ放題の様相だ。
やはり選鉱か積出の設備で間違いない。
鉄筋がむき出して
コンクリートは荒い。
選鉱所上にはアンカーボルトが林立し、
何か巨大な送風機や発動機などの、
工業器械が鎮座していたようだ。
選鉱所上から炭住街を見下ろすと、
森の中に鉄柱が立っている。
あれは・・・。
これは紛れもなく街灯跡だ。
かつての炭住街のメインストリートに存在した街灯の支柱だ。
ここにも暮らしがあったのだ。
すぐ近くには、
「銘酒 盛春」の朽ちた看板が。
商店や飲み屋もあったのかもしれない。
更に山中を進むと突然現れた廃隧道。
これは坑道ではなく、連絡隧道のような感じだ。
もしかすると隧マのような存在かも知れない。
これは明らかに人道サイズで、
峰越の連絡隧道のような雰囲気だ。
方向としては上流の川口坑方面に向かっている。
坑内面は荒れており、
大正時代からすると100年隧道となる。
電化の痕跡は無く、もしかすると馬鉄の廃線跡かもしれない。
坑門から約150m進み、
いよいよ坑口の明かりが届かなくなった。
これは運炭路なのか、峰越人道なのか謎は深まる。
しかし呆気なく覆工が破壊され、
完全埋没の地点に達した。
この先はもう二度と進めない。
上流の川口坑、岩井沢坑、そして下流の中の沢坑を繋ぐ運炭路かもしれない。
この中を馬に引かれたトロッコが
行きかっていたのかもしれない。
隧道の河川寄りにはレイルの廃祉が残存していた。
6kg級以下のか細いものだ。
内燃機関は往来していなかったようなのでこれが馬鉄の証かもしれない。
再び奔別川を渡渉し撤退中に発見した遺構。
斜面に架かるコンクリートの廃墟だ。
帰路で初めて気づいたので少し接近してみる。
RCのブロックのようだが、中からかなりの水流音が聞こえる。
しかも2か所の穴からは硫黄臭が激しい。
もしかしてこれは密閉された坑口ではないだろうか。
隙間から覗くと、それは紛れもなく坑道であった。
しかも二条のレイルが這い
一面が温泉水で満たされている。
これが水平坑「岩井沢坑」の全貌だ。
ここからは上流の奔別橋を超えて川口坑を目指す。
川口坑は明治32年開坑、
35年閉山と非常に短命であった。
再び奔別川まで降り、渡渉を開始する。
ここからは足での調査となる。
何か遺構が無いか見渡しながら歩く。
河床にはジブクレーンの産廃がある。
付近には雨量や水位の調査施設もあるが、
遺構は見当たらない。
付近には遺構が散発してきた。
これは深い竪穴だ。
φ1.5m×深さ3m程度だが、その目的は解らない。
煉瓦の遺構である。
坑口かと期待したが
これはどうやら火薬庫の関連施設のようだ。
付近に遺構は点在するものの、
岩井沢坑のようなストーリー性のあるものは発見できなかった。
しかしいつもの昭和廃墟とは一線を画する廃墟群は十分魅力的であった。
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