黄金郷に到達す
明治末から大正まで約20年間栄えた本鉱山は、
鉱員社宅・変電所・共同浴場なども併設した、
鉱山集落であった。
森に入るとすぐに建物の土台跡が林立する。
あたりは工業的な施設だったようだ。
一時は400人を超す集落を形成していたらしい。
更に奥には旧いトラックが棄てられている。
近づいてみる。
旧ダイナと思われる2t車の煽には、
「轟鉱山」の文字が・・・。
森の最奥にはレイルが残存している。
木々は成長し、しかし遺構はしっかり残っている。
更に森からは寸切りボルトが生えている。
これはあちこちにあり、足元に十分注意して探索する。
遺構は森の中に多数残っている。
神社や火薬庫、選鉱所もあったらしい。
移動して轟方面に向う。
彩の紅葉の中、更に上流へ遡る。
明治38年に小樽新聞社の記者が轟鉱山を訪れた際の現地描写は圧巻だ。
「金橋より上手は四方の眺望一転再転して山容水態の黒幕は忽ち切って落とされぬ前後左右に〜
白蛇の如き渓流は其間を縫ひ綾って紆余屈曲怪禽の水流に咽ぶあり渓波の錦を織り出すなり泉の声は〜」
渓波の錦。紅葉も眩しい。
露頭が見えると、
中越手前のライオンの滝付近に、
巨大な露天掘り跡が見える。
露天掘り跡に近づく。
川向の道内初の水力発電所跡はその痕跡もなかった。
圧巻の露天掘り跡だ。
頻繁に崩れている。
現在ではすべての地名が消えてしまったが、
当時は「越」の付いた地名が多かったようだ。
林道を進み、中越の抗員社宅跡に入る。
当時は理髪店、郵便受取所、宿舎、商店もある一台集落であったようだ。
そして会社は土地を無償で貸し付けていたらしい。
西卓越の小学校跡に到着。
ブッシュを押して、その痕跡に近づく。
ようやく鉱山中心部である西卓越に到着した。
いよいよ『得虎洞』に近づいた。
しかし付近は穏やかな斜面で木々しか見えない。
茂みを登ると、棄てられ腐食したトロッコがあった。
場所は間違いないようだが、目立った設備は見えない。
奥にはRCの施設跡があった。
鉱山跡で間違いない。しかし坑口や精錬の施設は見えない。
藪を漕いで、更に登る。
直上の斜面にはズリらしき荒地が見える。
あそこを目指してみよう。
村史によると「採掘は卓超脈を主とし、精錬所より約一町処に坑道あり」。
「これを『得虎洞』と云う」とある。
石垣だ!精錬所に違いない。
道なきかなりの斜面を相当登った。
精錬所の廃墟だ。
『得虎洞』という坑道を基点として、上部へ60m.80m.110m.140m.160m
の処に坑道がそれぞれ存在したらしい。
それら坑道はこのあたりのはずだが、
その痕跡は見当たらない。
石垣は更に上部に続き、
どんどん山深くなる。
坑口らしき塞がれたような斜面も見えるが、
どこも確証はない。
この付近の坑道間は直立、または45度の斜坑をもって連絡し合い
各坑道間の採掘を行っていたらしい。
ようやく下から見上げていたズリ山付近まで登ってきた。
ガレ場で足元はどんどん崩れ、非常に悪い。
いよいよズリ斜面の中心部に到達した。
斜面から振り返ると、200m以上は登ったようだ。
残念ながら坑口の発見には至らなかった。
ある金属鉱山研究誌によると、『得虎洞』は「エルドラド」と読ませていたらしい。
「エルドラド」・・・つまり伝説の黄金郷である。
その研究誌にはこうある。
「当時における夢に満ちた轟への期待と機知に富む名付け親の存在を思わせるものがある」
再び苦労して斜面を下り、
白井川沿いの林道を遡る。
卓越、秀越抗付近を目指す。
紅葉が相変わらず凄い。
斜面に分け入ると、
その先には巨大な施設が・・・。
大きな施設だ。
選鉱所で間違いない。
立派な石垣がある。
廃坑跡らしいくなってきた。
屋根付き軌道に囲まれた精錬所で、かつては手押し人車で鉱石を運んだらしい。
ポケットには腐食した水と、
落ち葉が堆積している。