川渡りを繰り返す
提頂から続く道はすぐに土砂崩れで、
行き止まりとなる。
現在復旧は完了しているが、
更に奥地で土砂崩れが発生しており、
林道は通行できない。
青山方面か月形スキー場あたりから、
延々20km以上の林道をアクセスするしかない。
山々を見下ろしながら、
林道を走る。
紅葉の時期は羆も活発で、
付近を注意して走る。
湿って滑りやすい山岳林道をひた走る。
1台の車両ともすれ違わず、
1時間以上林道を走ることとなる。
分岐も数多く、地形図便りで走行する。
迷い込んだなら不安になりそうな距離と道だ。
かつての索道の屈折点付近を歩いてみる。
道内でも初めての木製支柱と木製炭車を使用した索道であった。
付近は辛うじて林道のようだが、
最近の走行跡は見られない。
藪を漕ぎながら歩く
水没し沼地のような部分も多い。
索道は地形に寄らないので、痕跡は少ないかもしれない。
当初は月形駅まで計画された索道であったが、地形上、直線での敷設が困難であったため豊ヶ丘乗降場に計画された。
とうとう川渡りを強いられる。草が茂ってくる。
豊ヶ丘から小学校の在った落葉の沢で曲折されて坑口へ向かう。
昭和29年電化、昭和35年には羽幌炭鉱にて使用されていた玉村式鉄塔と取り換えた。
そろそろ諦めて引き上げかもしれない。もう少し奥を確認してみる。
1t積みの鉄製炭車10台が新設されてからは、
当時の道内炭鉱でこの索道はその先駆をなす最新設備となる。
ようやく何かの痕跡があった。
しかし索道の関連かはわからない。
吊り下げた炭車バケットに密に乗る人がおり、終業にて索道が停止し騒ぎになったことがあったそうだ。
山中深く、木の洞には大きなきのこがある。
ここからは炭鉱のメイン施設に向かう。
林道を進むと、大木がある。
いよいよ炭鉱集落跡に近づいている。
川向こうにレンガの煙突が見えた。
水没して河床を渡り、レンガに近づく。
鳥居が埋まるほどの積雪、橋梁が流される大雨、それでも人々は炭鉱に留まりヤマはヤマなりの人の和があったという。
やはり炭鉱集落跡の煙突で間違いない。
しかし付近には他の構造物が見えない。
レンガだけは立派によく残ったものだ。
月形の街から馬そりで3時間、それでも居心地よく思いやりの濃い街だったらしい。
倒木で林道は塞がれている。
しかしここに到達する前にも土砂崩れを越えてきている。
当時も交通機関の確保が重要項目であり、昭和28年に路線バスの運行が始まったが、
相次ぐ水禍と便数の少なさから、わずか1か月で休止となってしまった。
奥にはRCの煙突があった。集落跡で間違いない。
当初は月形駅の裏手の9戸の社宅から、3時間半の徒歩を経て通勤したという。
冬の道路確保は困難を極め、最新鋭の微粉炭処理機と進駐軍の雪上車を交換したとのエピソードもある。
ものすごい山中だが、ここにもかつて暮らしがあった。
やがて落葉の沢には近代的なアパートとして2階建ての寮が建ち、20世帯が入居、月形市街からも物見遊山に来るほどだった。
「鉱員社宅」の土台だろうか。
夏場の発見は難しかったかもしれない。GPSを取り出して、方位を確認しながら進む。
山元の炭住街も賑わいをみせ、最盛期には職員住宅20戸以上、鉱員住宅100戸が建ち並び、狭いながらも街を形成した。
いよいよ施設跡が増えてきた。歩くたびに痕跡が見つかる。
人口の増加に伴い、個人が食料を市街から仕入れ、山元で販売した。
やがて会社の配給所が運用されたが、物資が品切れても付近は山菜の宝庫であったため米と味噌さえあれば現地調達できたようだ。
突然、川向こうに坑口が見えた。
坑内にはドイツ製の圧搾機、ディーゼル小型動力車などが運用され、
従業員の士気向上、最盛期をもたらすこととなる。
坑口に向けて川を渡りたい。
しかし雨の後の増水著しいので、よく確認する。
鉱員約200人というのは小規模の域を出ることなく、技術的躍進がかえって経営苦汁をもたらす結果となったのかもしれない。
坑口に向けて渡渉する。
今回はやたらと水没する。
保安管理には意が注がれ、大きな災害は無かった。
坑口に向けて最後の崖をよじ登る。
いよいよ坑口だ。
医療機関としての診療所が設置され、助産婦兼看護師1名が配属されていたという。
坑口に最接近した。
意匠は剥がれ落ち、内部は密閉されている。
月形炭鉱は坑内ガスが少ないことから、大きな事故発生は記録にない。
いよいよ炭鉱跡の中心部に到達した。
坑口から振り返ると、山中に何か施設が見えた。
坑口から離れて近づく。
水洗選炭所か、かなり巨大。
近づいて探索してみよう。
金属鉱山と違い、炭鉱ならではの形状だ。
登ってみよう。
九州で製作された選炭機を導入した選鉱所。
ホッパーらしき貯炭場。
かなり劣化している。
全体的に昭和32年頃には経営が安定したものの、その後、他炭鉱同様に不況の波も発生した。
更に奥の上を目指す。
落ち葉が多い。
食糧事情に事欠くこともあり、従業員同士が資金を出し合って生活協同組合を作ったが数年で赤字による頓挫となってしまった。
よくわからない設備も多い。
廃坑跡らしいくなってきた。
ヤマの賑わいが本格化してくると、例年5月15日には炭鉱の守護神である大山祗神社の山神祭りが執り行われた。
トロッコ軌道跡らしき架台もある。
かなり腐食している。
危険な場所も多い。
今にも崩れそうだ。
山神祭では神輿が街を練り歩き、永年勤続表彰などの行事もあった。
付近には石炭の大きなズリも落ちている。
やはり炭鉱跡ならではの痕跡だ。
少し施設を登って下部坑を見下ろす。
時期が良くて視界が広い。
かなり上部へ登ってきた。
更に上を目指す。
選炭施設の中心部まで来た。
隧道らしき跡もある。
中に入ってみる。
工業的な穴のようだ。
穴は短く、内部は何かの架台が敷かれている。
隧道を超えて奥に進む。
ほぼ施設の頂上まで来た。
下は足がすくむほどの高さだ。
最上段には新たな坑口があった。
登ってみよう。
内部に侵入してみる。
かつては水没していたようだ。
奥は数mで上部が決壊し、
おびただしい量の土砂で埋没している。
最奥から外部を望むと、
紅葉の木々の明るい彩が見える。
坑口から出て、再度下る。
従業員の子弟は当初、役場の横の合宿所で24〜25名で入寮していた。
ホッパーは鉄筋が露出し、
激しくコンクリートが剥がれている。
舎監は家族的な運営であったが、昭和28年に落葉の沢に月形小学校紅葉谷分校として児童数29名の分教場が発足する。
下から望むホッパーは大迫力だ。
いずれは崩れてしまうのだろうか。
昭和30年には中学校が設立され、短いながらも昭和37年まで子弟の教育に有効であった。