藪漕ぎの上に藪漕ぎ
1918年(大正7年)に音稲府川上流で発見された本鉱山は、
1927年末(昭和2年)に採掘が始まり、1935年(昭和10年)に青化製錬所が建設された。
鉱山から元稲府海岸まで簡易軌道が敷設され、
最盛期には従業員1000人・月間2,600tを採掘する規模の大きい鉱山となった。
1943年(昭和18年)金山整備令によって15年の歴史を以って閉山と相成った。
蒼いオホーツク海と緑の牧場の続く雄武町郊外。
広大な牧場の続く風景が連続する。
保存会によって立派な看板が立てられている。
鉱山跡が保存されいることも多いが、
ここまで手前に目印があるのは珍しい。
道はすぐにグラベルとなり、
しかし直線で山へ向かう。
かつての北隆鉱山専用軌道の跡はまるで見えない。
道は音威子府川に沿って遡る。河床は澄んでいる。
かつては精錬鉱滓や青酸塩液による鉱毒事件もあったらしいが、
現在は非常に美しい河川だ。
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道が蛇行を繰り返してくると、そろそろ鉱山跡地だ。
山中から13.5q下流の荷役所までの
鉱石運搬は当初冬季間の馬橇であったという。
かつての設備の配置図が掲げてある。
昭和9年には軌道が敷設、
40馬力、4tガソリン機関車が稼働した。
しばらく行くと「墓地」があった。
草は刈ってあるものの、実際には何も無い。
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さらに上流には集落跡と慰霊碑がある。
軌道は12両編成3〜4往復/日の運転で、
鉱山関係者の便乗もあり、雄武市街まで向かった。
立派な慰霊碑が建立されている。
石文が埋め込まれた慰霊碑は、
平成6年10月に設置されたものだ。
慰霊碑の石文には、
歴史と物故者の慰霊の文字が刻まれている。
学校、病院はもちろん、運動娯楽施設もあり、
日用品は一切支給されていたようだ。
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神社跡にも一切何も残存していない。
産金量でみると、昭和9年から200s超えとなり、
ピークは昭和14年の302sである。
鉱山社宅跡にも目立った施設は見えない。
戦時下の発展は従業員数の推移からもわかる。
昭和3年の28名が昭和7年には102名とその後3年で四倍に及ぶ。
奥には運搬軌道跡のアバットが残存している。
急激な従業員数の増加は、山元の諸設備の充実を招いた。
集会所・供給所・診療所・理髪店・旅館と山中に一大鉱山街が形成される。
ここからは藪を漕ぎつつ進む。
鉱山街の諸施設は音威子府川上流から、
発電所・精錬所・小学校の3ブロックに分かれていた。
ひたすら藪を漕いで進むと、道のような鹿路のような空き地がある。
その奥には石垣の廃墟が現れた。
茂みの中の石垣は青化精錬所の廃祉だ。
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巨大な石垣を懸垂下降する。
昭和10年5月に新設された
青化精錬所
は当初2,000t/月の処理能力であったが、
三度の増強工事により4.500t/日に拡大した。
製錬所は742.5坪の木造平家段形建におよび、
工場の側壁の上にフェルトを張り付け、
更にトタン波子板張りとし、防寒に貢献した。
建屋の高低差は40mに達し、
擁壁は石垣勾配25°、
冬季暖房用としてコルニッシュボイラー二基が設置されていた。
堀のような水路が囲う。
製錬所南西70mの斜面に20馬力の巻上機が設置され、
付帯設備として製品の荷役に利用された。
更に苔むした路を登る。
奥には坑口があるはずだ。
「第一坑道」の看板はあるが、酷い茂みだ。
熊笹が生い茂っている。
GPSでの方位確認を怠らないように進む。
マダニやヘビ、ヒルに注意しながら進む。
鋭利な葉や棘にも注意だ。
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第一坑道に到達した。
六角形の坑口は珍しい。
しかし相当の土砂が堆積し、
当初の下半分程度が埋没しているようだ。
坑道へ突入するが、屈まないと入れない。
昭和15年には付近の戸数1634、人口7723名であったものが、
閉山後の昭和19年度には戸数980、人口5344名と激減している。
坑口からは鉱水が流れ出している。
戸数差654、人口減2379名のほとんどが、
北隆鉱山関係者であったという。
坑口から再び激藪を抜ける。
戦後の北隆鉱山は再開に向けて期待が深まる。
昭和26年からは鉱業権者が戻り40日間に及ぶ試掘調査が行われた。
その奥には通洞の坑門だけが残っている。
昭和31年の雄武町定例議会においても、再開問題が取り沙汰されたが、
結局、戦後の再開は夢となってしまった。
公害問題と共に街を支えた鉱山跡の現状の姿だ。
廃坑後の専用軌道は雄武駅から上幌内の道地方林の搬出に活用計画されたが、
その30qは実現せず、村の陳情も幻と化した。
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