万字炭鉱 橘排気風洞跡 探検: 北の細道 万字炭鉱 橘排気風洞跡

万字炭鉱 橘排気風洞の
   斜坑に沈む水脈と31メートルの記憶




北海道岩見沢市

 万字炭鉱は明治40年に開坑、
開発当初の個人の家紋「卍」にちなんで万字坑と命名された。
大正3年(1914)には志文-万字炭山間の鉄道が開通する。

大正7年には北炭屈指の大炭鉱と相成る。
その後、湧水と断層に阻まれ、
昭和25年には広範囲の鉱区を中止して北部方面に移行することとなる。

やがて昭和28年には新斜坑が開坑するものの、
これも昭和34年に大量出水のため放棄される。
その湧水を堰き止めるべく、坑内ダムの建設が進む。

坑道維持のための湧水対策が長年にわたり施工されたが、
地質の脆弱さと複雑さはそれを困難にし、
たびたび坑道水没の繰り返しが発生することとなる。

特に昭和50年(1975)の台風6号による大規模出水事故で主力坑道が完全に水没する。
これにより、復旧に至らず翌年、約70年続いた操業が終わり閉山となる。

坑内ダム
坑内ダム

最盛期の昭和30年には5千人を超える炭鉱街を形成し、
北炭のドル箱として夕張第一坑の出張所から、北炭万字坑として独立した経緯がある。

しかしながら昭和51年(1976)の閉山時、
万字市街の人口は昭和50年の1,704名から翌年には682名と、
1年間で1,000人以上がその地を離れることとなる。




なお今回、成瀬健太 様より多数の情報提供を頂きました。
この場をお借りして、お礼申し上げます。



遮断ダム・水没・排気風洞・・・



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