高倉鉱山跡 探検: 北の細道 高倉鉱山跡

高倉鉱山で赤錆びた祈りをみる



福島県南相馬市


 配電統制令は昭和16年(1941)に公布された戦時下の電力供給における国家管理を目的とした法律である。
それまでは幾多の各電気事業者が独自に事業展開していた中で、
既存の電気事業者を統合管理し、日本を配電会社9社で分割したのがこの統制の骨格であり、
その統括は昭和21年(1946)まで継続された。

日高電燈株式会社は昭和2年(1927)6月に資本金50万円で設立された。
当時の物価は宿泊料が3円、大卒初任給25円の時代であり、その資本金はかなりの額であったと言える。
満州事変(昭和6年〜)以降、不況の波は去り、
北海道日高地方に工業を誘致するためには低廉豊富な電力が必要であった。
発電有利な河川が模索されている中、幌満川が着目され、その実現のために設立されたのだ。

昭和9年(1934)12月、旧幌満川第一発電所が運用開始された。
同時に幌満川水力電気株式会社が設立された。
発電所
発電所

これが後の東邦電化株式会社となる。

東邦電化株式会社はこのように日高開発の一環として設立された。
当時、日高電燈株式会社は無配であり資金繰りは絶望的であった。
そこで受益者からの資金を募り、総工費42万5千円をかけ第一発電所は完成し、
年間総出力870万kW、1キロあたり8厘という低廉な電力原価が確保できた。

幌満川第一発電所
幌満川第一発電所

幌満川第一発電所の完成により日高地方の工業発展がもたらされ、
日高電燈株式会社の業績も立ち直ることとなる。

幌満川水力電気(株)と日高電燈(株)は共に幌満川第一発電所の配当を受け、
幌満川第二(昭和15年10月)・第三発電所(昭和29年9月)の完成に至る。
しかしながら前述の統制下で昭和17(1942)日高電燈は配電統合により強制買収された。
そして北電の母体である北海道配電株式会社に所有者変更し開業した。

特に幌満川第三発電所に至っては、周辺地区町村の『発電貯金』により、
5千人の融資が実現したものの、インフレ経済下の着工予算超過となり、
昭和25年(1950)1月で発電所建設工事は頓挫することとなる。

しかしその後の朝鮮事変による特需により、全国電力飢餓が発生、
幌満川第三発電所は通産省からの工事着工指示により国策資金が投入される。
やがて昭和29年(1954)9月に第三発電所は完成をみる。

東邦電化株式会社は昭和9年(1934)12月の設立以降、第一発電所の建設を行い
昭和16年(1941)1月には日高工場における合金鉄の製造を開始する。
終戦以降昭和24年(1949)に姉妹会社であった高ノ倉鉱業を吸収合併し、
鉄鋼業界の活況に伴い、製鉄用マンガンへの進展をみせた。

また異常渇水による 【電力不足】 を補うための自家発電の効果が功を奏した。
そして発電所工事中に発見した橄欖岩(オリビン)事業化により更なる発展を遂げ、
やがて松前郡福島町の渡島鉱山の鉱業権所有や
北見 若佐鉱山/日の出鉱山のマンガン鉱石処理に進展することとなる。

高倉鉱山は高の倉鉱山と称された時代もあり、かつては磁鉄鉱を産出、発見は明治40年(1907)頃とされる。
大正初期には露頭の採掘が進み、鉄鉱石を会津の大寺(大雄院)製錬所に鉱送した。
第一次大戦後に休山、昭和12年(1937)に高倉鉱業株式会社を設立し、
坑内採掘で昭和14年(1939)より精鉱1万t以上を産出した。

本坑の鉄鉱石には銅が含まれ、それは強度低下を招き鉄鉱の腐食の促進に繋がる。
その品質低下を招く鉱石に含まれる酸化物を検証した結果、
銅鉱として非常に優秀なものであることが確認された。

そこで鉄鉱石鉱山に変わり、昭和28年からは日鉄鉱業株式会社が協力、
本格的な銅鉄鉱床開発に乗り出した。
つまり当初は鉄鉱石を産出し、その含まれる酸化物は厄介な存在として周辺に堆積放置、
銅としての価値が認められた以降は、鉄山から銅山へと転換、優秀な銅山として君臨したのである。

高倉鉱業株式会社は昭和26年(1951)4月には東邦電化株式会社に併合された。
高倉鉱山
高倉鉱山

最盛期には索道と専用軌道が敷設され、
原町駅から出鉱、銅鉱は日立に、鉄鉱は日本鋼管に納入していた。
しかし富鉱部は掘りつくされ、低品位鉱の選鉱を進めていたものの、
昭和35年(1960)閉山となる。


今回は鉄鉱山から銅山へと赤い鉱脈に新たな側面を見せた鉱山跡の探索だ。
大きな遺構は発見できなかったものの、
廃れし神々に手を合わせ、足元の道の意味を追う探索となる。

鉱山神社・八宝鉱山・バッカメキ・・・



水槽
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