静かな闇の道標なき岐路
深い山中に位置する大きな坑口。
深く急角度なため、懸垂下降にて下る。
坑口を下るとテラスがあり、
そこからは坑木の残る水平坑が伸びている。
付近の天盤には鍾乳石がある。
鍾乳石は二酸化炭素を吸収して弱酸性となった雨水が、
地表に浸透しつつ石灰岩を溶かしながら染み出すことで生成する。
坑道内にしみ出した雨水が、
空気中に二酸化炭素を放出すると炭酸カルシウムが析出し、
少しずつ結晶化することで鍾乳石となる。
鍾乳石の成長速度は非常に遅く、
一般に1cm成長するのに、
30〜100年かかると言われている。
昭和19年の高倉鉱山は従業員数260名、
鉄鉱石生産4〜5,000t/月と重要鉱山に指定され日本鋼管などに納入していた。
北端の金高坑はかつて八宝鉱山と称した時代があり、
モリブデン鉱床として第二次大戦末期に開発された。
こちらの廃祉は鉱山施設ではなく林業に伴うものかもしれない。
日本化学工業の子会社であった高倉鉱業株式会社は新たに建設される電解工場に鉱石を納入し
純鉄を製造する計画があった。
しかしその電解工場は建設中に終戦となり計画ごと頓挫した。
石垣が色濃く残る。
昭和24年には北隣の八宝鉱山を併せて森林軌道をも買収した。
更に4号鉱床から取木沢合流点まで鉄索を設ける計画中に
銅の鉱床に切り替えられ、
やがて昭和26年4月には社名を東邦電化株式会社に改めた。
閉山直後の貯鉱瓶跡、この上部を軌道が通過していた。
主要坑道は4号中切坑【350m】大切坑【300m】
3号新坑【260m】3号横坑【420m】が存在した。
大きな平場もあるが、遺構は見当たらない。
架空索道は4号太平間970m、太平6号間900m、6号取木沢間830mがあり、
ガソリン軌道は取木沢原町間18.4kmに敷設、
当時の従業員は職員11名 鉱員115名であった。
更に上流域では瓦やコンクリート製の遺構が散発する。
当時、鉱山を永続させるためには選鉱場の必要性が叫ばれたが、
鉱床の規模を確認することに尽力が払われた。
当時、鉄鉱石を産出していたものの、
その鉱石は1%程度の銅を含んでおり、
これは鉄鉱としては欠陥とされた。
その間のそれら土状の酸化物は放置され、北大教授の巡検によって銅の存在が指摘された。
ところが当時は鉄鉱にのみ目的が定められていたため、
その含有される銅については顧みられなかった。
鉄鉱床から銅鉱に切り替わった時期は、
その産出量から昭和27年(1952)当時だと推論できる。
鉄鉱と銅鉱の産出量の趨勢
鉄鉱と銅鉱
年号 |
鉄鉱(t) |
銅鉱(t) |
昭和16年(1941) |
14,151 |
0 |
昭和19年(1944) |
2,941 |
0 |
昭和23年(1948) |
4,587 |
0 |
昭和25年(1950) |
3,776 |
2,124 |
昭和26年(1951) |
1,472 |
5,481 |
昭和27年(1952) |
0 |
5,665 |
昭和28年(1953) |
0 |
2,286 |
昭和30年(1955) |
0 |
2,675 |
更に山深く登ると水槽らしき遺構がある。
銅鉱に移行後、東邦電化は開発を日鉄鉱業に二か年計画で外注したものの、
昭和29年(1954)11月に稼行価値が乏しいとの理由で撤退となった。
こちらは林業用の遺構のようだ。
再び東邦電化の開発となった高倉鉱山は三菱鉱業の技師を招待し、
低品位鉱石の選鉱処理を目指して資金繰りに奔走した。
付近には鳥居らしき構造物がある。
長崎の山王神社には爆風により一本柱となった鳥居があるそうだが、
これは意図的に壊されたようだ。
鉱山衰退期に入ると、
原町駅までの運鉱用軌道を転売し、
トラック輸送に切り替えられた。
沢沿いには石垣の橋台が残る。
鉱山住宅も整理販売したものの、その富鉱部はすでに掘りつくされ、
選鉱設備の付加価値も見いだせず昭和35年(1960)に閉山となる。
鉱山神社らしき社殿が残る。
閉山に伴い、当時の従業員30名は東邦電化経営の岩手県田畑鉱山、
北海道日高の発電所などに四散していった。
銅と鉄は同じ鉱石に含まれ、その分離は困難である。
長期間、鉄鉱石鉱山として稼働する中、
酸化銅を含む鉄鉱石を不具合品として付近に退蔵していたことは、
後の高品位酸化銅鉱への容易な転換を加速することとなった。
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