北陽炭鉱跡 探検: 北の細道 北陽炭鉱

北陽炭鉱跡で日本大渇水による哀史を思う





北海道釧路市(阿寒町)

 昭和14年(1939)は降雨が少なく、『日本大渇水』と言われる未曽有の水不足に悩まされた。
琵琶湖、猪苗代湖が最低水位を記録、四国は田植期に干天が続き干害による被害が多発した。
平年の14%の総雨量で、島根県では渇水のため宍道湖へ海水が逆流し塩害をもたらした。

この大規模な水不足は全国の水力発電所が出力低下をきたす異常事態を招く。
その電力不足を補うため、急遽、石炭火力発電所が全面稼働するに至り、
結果、貯炭減による石炭不足が深刻化する。

翌年、石炭不足の対応策として、昭和15年4月8日、
『石炭配給統制法』が公布、日本発送電株式会社(略称 日発)が設立される。

日本発送電は電力の戦時下統制を目的とした国策会社であり、
電力関連会社、発電所、変電所、送電線など主要74社を統合した民有国営企業体である。

当時の電力飢餓は消費者の自粛協力措置だけでは対応できない域まで及び、
中小工場では生産の遅延、物価の高騰が相次ぎ、
政府は電力調整令に基づく消費規制を実施。
反動で日本発送電や電氣庁に対する非難は加速する。

水力発電が軌道にのらない以上、早急な火力発電への切替が必要となり、
当時の逓信省が日本発送電に資金提供を行い石炭の需給に奔走することとなる。
樺太の珍内鉱区及び内路鉱区を買収して樺太炭鉱工業株式会社を設立と共に、
釧路管内の北陽炭鉱を同様に買収して北海道炭業株式会社を設立、炭鉱開発に着手する。

ところが運営直後の昭和15年10月以降、降水量は右肩上がりとなり、
渇水に懸念することなく、日本発送電の炭鉱開発は実質、開幕することがなかった。
北陽炭鉱の開発も別の次元で頓挫し、結局出炭されること無しに、
民間に売却されるに至る。

日本発送電は日本中の全発電能力の80%を掌握したが、
1951年(昭和26年)5月1日をもって全国9地域の電力会社に分割され、
12年の短い活動を終えた。


今回は国策会社での開発計画をも経緯に持つ、釧路管内の山中深くの炭鉱跡の探索だ。
阿寒町内からも直線で20km、1970年代に人工衛星によってその存在が確認された幻の湖、
あの「シュンクシタカラ湖」のまだ北にある炭鉱跡だ。
アクセスは非常に厳しく、決壊した林道のため徒歩でのアプローチとなる。
遺構も少なく、その存在はベールに包まれているものの、
歴史的な背景はその立地のように奥深い。

なお 雄別炭鉱管轄の排気風洞群、
立花沢、奥雄別東部の各部についてもレポートする。

なお今回、Hydro Power Agency様より多数の情報提供を頂きました。
この場をお借りして、お礼申し上げます。



日発・ボイラー・シュンクシタカラ湖・・・




雌阿寒
雌阿寒





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