精鉱処理場への道

東嶽月光の滝は大正時代から神聖な神の社として崇められていた。
ネギや肉食後の入山禁止、滝行の禁止等、
遺訓板のある神の滝なのだ。 東嶽月光の滝


神聖な月光の滝である。
開明鉱山はここから約2km山中だ。 月光の滝


冬季閉鎖の林道を歩く。
車両の通行が無いせいか、
道は荒れている。 林道


鉱山跡に近づくと山中に遺構がある。
社宅や事務所などの跡のようだ。 社宅


基礎のような遺構が残存する。
主要鉱脈には入富/福富/大富/十兵衛などの名称があった。 遺構


小川目沢を渡渉し先の見えない藪の廃道を進む。
周辺の写真が結果的に少なかったが、
それはハードルートのためだ。 廃道


GPSに従い森を進むと、
貯鉱舎のような廃墟が現れる。 貯鉱舎


これは選鉱後の精鉱積込施設だ。
コンクリートは酷く劣化している。 貯鉱舎


選鉱所で粒度が揃えられた鉱石は、
精鉱処理場でろ過されたのちここに運ばれ、
その後、トラックで浪打駅に搬出された。 積込施設


貯鉱舎からも荒れたルートで、
当時の鉱山道路は発見に至らない。
地形図からの推論では約300m先だと予想している。 廃道


やがて焦点として定めた鉱山道路に接続した。
その道も荒れており、
歩くのがやっとの廃道だ。 鉱山道路


鉱山道路を進むと木製の電柱が現れた。
これで選鉱所への道の確証が得られた。 電柱


そしていよいよズリ山に到着だ。
ここはズリというよりろ過後の残屑ケーキの堆積場のようだ。 ズリ山


その奥には大きな廃墟がある。
これは恐らく精鉱処理場だ。 精鉱処理場


選鉱後の精鉱はパイプ輸送してこの精鉱処理場で濃縮ろ過される。
ろ過後、山下の貯鉱舎から出荷される。 精鉱処理場


当時の平均品位は銅2.19%、
昭和41年3月現在の総坑道延長9,748mに及んだ。 精鉱


選鉱後の鉱石を泥状のままパイプ輸送する鉱山は他にも存在した。
たとえば 勝山鉱山 においてもサンドポンプで鉱石を搬出した記録がある。 選鉱


これは記録にある選鉱所から精鉱処理場までを結ぶ、
パイプ輸送の道の跡だ。 パイプ輸送


これが選鉱所側の輸送パイプ道の跡だ。
サンドポンプは固形物を多く含む泥状の流体を流すことができる。 輸送パイプ


鉱送用の輸送パイプの通路である。
選鉱所側から精鉱処理場まで緩やかに下っている。 鉱送


鉱送の路の先には巨大な選鉱場が残る。
開明鉱山 選鉱所に到達だ。 選鉱所


かつての選鉱場面積は建坪354坪、鉄骨建屋であり、
昭和35年11月に完成した。 選鉱場


選鉱方式は銅・亜鉛ストレート優先浮遊選鉱で、
水洗を伴う二段回路であった。 選鉱場


つまり鉱石をトロンメルなどで水洗いしつつ選別、
-10mmに破砕後ボールミルで-200メッシュに摩鉱する。
選鉱場操業成績は130t/日であった。 選鉱施設


精鉱の合計産出量は以下となる。
精鉱金量 23kg/精鉱銀量 2,564kg/精鉱銅量 1,478t。 選鉱場


年度別粗鉱量としては、
昭和31年度 1,990t 品位 金0.4g/t 銀54g/t 銅3.36%
昭和35年度 12,631t   品位 0.3g/t 32 g/t 1.82%
昭和38年度 1,416t   品位 0.3g/t 45 g/t 2.35%
浮遊選鉱


山形県で第二次大戦中に稼行された金属鉱山は100か所を超える。
大日本鉱業株式会社は秋田県の銀山を事業母体に
明治末期に発足、大正4年11月に会社組織となった。 選鉱


大日本鉱業株式会社の主要事業所は、
立又鉱山をはじめ発盛製錬所、大泉鉱山、開明鉱山、吉野鉱山等となる。 鉱山神社


選鉱場の完成は昭和35年(1960)12月、
昭和38年(1963)5月に閉山。
わずか3年の稼働である。 水槽







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精鉱処理場跡
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