隠れキリシタンの憂鬱


紫波町は岩手県のほぼ中央に位置し、
昭和30年に1町8村が合併し誕生した。
平野部に農地が広がり、そばや麦、フルーツ栽培が盛んな街だ。 紫波町


5月上旬、あまり使用されていないらしい林道から入山、
標高220m付近からアタックし、
狙うのは標高280m付近だ。 アプローチ


しばらく登ると精錬作業場跡の碑がある。
遺構は皆無だが、
過去に製錬用石挽き臼が発見された。 精錬作業場


シダの森を登る。
最盛期の付近の人口は1万人。
伝説的な規模の金山の面影はない。 森


棄てられたタイヤを苔が覆う。

山の多い佐比内はその資源を活用し、
これを利用しながら発展してきた。 タイヤ


標高を上げても鉱山道路は続く。
周囲には人工的な要素が垣間見れる。
しかも近年の土木ではない感じだ。 登坂


水路のような部分に石垣がある。
細かな石が積まれている。
昭和の繁栄よりそれ以前の盛況の方が長い。 輸車路


付近には太い鋼管も残る。
これは恐らく昭和の遺構、
時代を超えた廃祉が混在している。 鋼管


更に登ると遺構が点在する。

金山の発見当時は 「運上金」 その業務を独占的に行うことに対する上納金的な営業税 を競い合い、
大判6,500枚で請け負われた。 遺構


いよいよ朴木坑に向けて、
一気に標高を上げる。
この山中に巨大な街が存在していたとは想像がつかない。 鉱区


斜面にはズリと共に鋼製の部材が朽ちている。
いよいよ鉱区内に到達だ。
遺構を確認しながら更に登る。 ズリ


少し登ると建屋や鋼製の架台の様なものがある。
山中の鉱山跡に到達だ。
穴や崩れに注意してまずは周囲の状況確認を行う。 鉱山跡


斜面には鋼管が埋められている。
排水の関係ではなさそうだ。
ここは比較的新しく昭和50年代の遺構のようだ。 パイプ



かなり大きな遺構がある。
これはベルトコンベヤーか、
運搬に関する装置のようだ。 遺構


苔むしたトロッコの車輪がある。
トロッコがあるということは、
離れた位置に坑口があるのかもしれない。 トロッコ


奥の平場にはプレハブの建屋がある。
恐らく当時の鉱山事務所。
劣化が激しいようなので周囲を注意して確認する。 建屋


『朴鉱山』の看板が残る。
つまりここは昭和55年から57年までに栄えた、
(株)朴鉱山時代の遺構となる。  朴鉱山


碁盤が棄てられている。
娯楽の無い深い山中、
当時の鉱員が持ち込んだ遊興の一つだろう。 碁盤


鉱山事務所内部は設備が散乱している。
床も抜けており、
倒壊まで間もない雰囲気だ。 内部


ボーリングのコア箱が残る。
これは鉱床確認のためのボーリング作業で、
地層から抜き取った円柱形の試料だ。 コア箱


恐らく神棚と思われる台がある。

古い時代の金を抽出する製錬法は、
『灰吹法』というのが一般的だった。 神棚


プレハブの床は酷く破損している。

灰吹法は粉砕した鉱石を鉛とともに炭火で溶かして金銀との合金(貴鉛(きえん))を作る。
その合金を灰を敷いた鍋の中で加熱し、鉛は溶けて灰にしみ込み金銀だけが残るという方法だ。 灰吹法


プレハブ小屋周辺にも様々な資材が残る。

手堀の時代、坑道を採掘する際に硬い岩盤が露出することがある。
かつてこの時には『焼切』という方法がとられた。 資材


ヘルメットやワイヤーも散乱している。

『焼切』は硬い岩盤を火で炙り、
水で急冷することで鉱石を脆くして採掘する方法だ。 ヘルメット


削岩機も残されている。

採掘された鉱石は粉砕後、石臼で粉化してから比重選鉱された。
水中で鉱石をふるいに掛けて、流れる軽いズリを排除する。  削岩機


これは配管ではなくボーリング用のロッドやケーシングパイプのようだ。

危険を伴う坑内作業は男性が担当したが、
金の回収を行う繊細な選鉱作業は主に女性が行った。 ケーシング


しばらく登ると巻上機の廃祉がある。

明治維新後の金山作業は大きく進歩し、
搗鉱機、ボールミル、 青化製錬などが普及することとなる。 巻上機


ズリによる段丘が続く。
長期間採掘されたその痕跡だ。
段丘は片方に崖を持つ平坦面が連なる地形のことだ。 テラス


坑口らしき箇所はあるものの、
坑道自体は発見に至らなかった。
さらに付近を探索する。 坑口


周辺には時代考証の異なる鉱山道路が複数ある。
開山当時、盛岡藩は藩が直接金山を統括する『直山(じきやま)』と、
山師に管理を外注し運上金を上納させる『請山(うけやま)』という二種の管理方法があった。 旧道


下部に遺構がある。
斜度が激しいため、
アプザイレンで下る。 懸垂下降


崖下にはジョークラッシャ―が朽ちている。
これは偏心シャフトをもって鉱石を粉砕する機械だ。
ジョー(顎)の力で挟み込んで砕くのである。 マウスon ロールジョークラッシャ


下流の何もない森に『遊郭跡』の碑が建つ。
かつては江戸から300人、
仙台から250人の遊女が集まったというから驚きだ。 遊郭跡


歓楽街跡の碑もあるが遺構は何もない。

繁栄の陰には隠れキリシタンの痕跡もかつては残り、
十字を刻んだ石碑や十字架を草花の模様に偽装した墓石が残されていたという。 歓楽街跡







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巻上機
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