鹿部鉱山の索道
大沼公園は七飯町、鹿部町、森町の3町にまたがって広がる、
9000haの面積を持つ国定公園だ。
駒ヶ岳噴火により、大沼3湖には大小100以上の小島が浮かぶ。
JR現池田園駅は鄙びた無人駅で、
一見、島式ホームに見えるが、片側は草に埋もれている。
今回の目的は本JR線でなく、廃線となった大沼電鉄 池田園駅跡だ。
JR線の少し北方に現れたかつての大沼電鉄跡。
大きな石垣が存在し、
精進川、鹿部両鉱山の積出駅としての痕跡を探索してみよう。
付近にはすぐに積出設備らしき痕跡が発見できた。
鉱山との距離はおよそ直線で7km。
鉱山からここまでどうやって鉱石を運搬したのか。
西方面の藪に支柱らしき崩れた柱を発見した。
これは索道の支柱ではないか。
レイルで補強され、付近にはアンカーボルトも埋没している。
索道の支柱の先には緊張所と思しき小屋が現れた。
ブロックでの簡易な造りで、
これは道々からも望めるものの、知らずにはただの廃墟に見えるだろう。
緊張所の内部である。
中は何もなく、
制御の関係の施設だったかもしれない。
施設の裏手には円筒のRC造によるアンカーが朽ちている。
弛むワイヤーに張を与えるため、これを「重石」としてぶら下げたのだ。
このアンカーの出現により、ここが索道の駅であった証拠となる。
そして石垣の先には煉瓦の遺構が現れた。
これは記録に残る2基の焼取釜の痕跡であろう。
ということは付近にズリ捨て場があったのだろうか・・・。
数100m離れた平地に忽然と現れた白い山。
植生が無く、明らかに付近と一線を画する。
突如現れたズリ山に登ってみよう。
所々淡い色をしたズリ山。
なだらかに隆起し、付近だけ植物が無い。
細かな硫黄を含んだ鉱石も大量に落下している。
ここからは精進川鉱山に向けて林道を遡る。
赤い精進川に沿って登り、途中で北へ分岐する。
恐らく銚子口から雨鱒川沿いに登っても到達できるが、今回は本道である精進川側からアクセスする。
駒ヶ岳を望みつつ、雨鱒川に向かって歩く。
旧い鉱床図を持参しつつ、
まずは林道沿いの「消石灰混合施設」を探索する。
5本の林道が交差する標高590m付近。
この西の谷間が新鉱床のはずだが、直線距離200mで40m下るので、
その斜面の距離は√(200)×(200)+(40)×(40)=203m。角度はtanΘ=40/200で約12°と下るにはきつい。
消石灰混合施設付近には何もなく看板だけが存在する。
「地下水観測井 防護柵」「商工労働観光部資源エネルギー課」「平成3年」との文字が。
鉱山跡から流出する坑内水の処理として坑道密閉、排水路等の整備緑化、
それでもなお流出が防げなかった場合に中和またはアルカリ化が行われる。
付近にはビニールパイプの枡と計測機器のようなボックスがある。
これは採掘跡へのボーリング孔で消石灰の懸濁液を注入し水位や水質を調査する、
中和試験の混合装置である。いよいよ近い。
林道を下り露天掘り跡を目指す。
鉱山跡は雨鱒川に沿って標高540〜440m付近に、
南北約600m、東西約200mの範囲に広がっている。
少し治山された植林の向こうに、
露天掘り跡らしき跡が見えた。
このあたりが鉱山の北端となるはずだ。
再び孔号番号の振られたボーリング跡があった。
記録では8孔のボーリング孔により坑内中和試験を行ったようだ。
場所の把握に至り、坑口も近いはずだ。
そして到達した坑口である。
鉱床図から「中切坑」であるのは間違いない。
雨鱒川の最上流を渡渉し坑口に近づく。
坑口からは大量の鉱水が流れ、
雨鱒川と合流する。
坑口を覗いてみよう。
内部は予想通り川となり、
支保工が続く、
入坑10mほどでこれは危険と判断し撤退した。
坑口の上にも何かある。
よく見ると穴が更に上部に2か所ある。
なんと3段で構成された坑口群だ。
マウスon
A番目の坑口は激しく埋没している。
支保工も絡み、内部は窺い知れない。
更に上部に登る。
B番目の坑口は崩れてはいるものの開口がある。
下部坑に向けて崩れた穴ではなく、
明らかに人為的に掘削されている。
しかしながら坑道は続かず、
狭い範囲で埋没している。
他の坑口も探索してみよう。
中切坑から雨鱒川に沿って辛うじて残る鉱山道路を登る。
付近には新坑、二番坑、新生坑と坑口が並ぶが、
どれも埋没したのか発見には至らない。
土手に埋没した配管とそれを受けるプラカゴ。
これは大盛坑のなれの果てであろう。
坑内水が湧出しその対策が取られた跡のようだ。
本鉱床付近に到達するとそこには、
撹拌器のバルブが林立する。
坑道から揚水した鉱水を貯水槽から混合槽に注入しそこで消石灰と撹拌する。
標高520m付近の新鉱床にも孔や撹拌バルブが残存する。
斜坑や竪抗の記録もあるが、
これらは発見に至らなかった。
そして一番の謎が付近に残るこの碑だ。
「日露戦役記念碑」である。
明治の年号が記載されているが、どうしてここに人知れず埋もれているのか謎は深まるばかりだ。
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