雄別より大きな炭鉱


阿寒町は平成17年(2005)に音別町とともに釧路市に合併した。
北部の阿寒火山地帯と南部の丘陵地帯に分かれており、
阿寒丘陵地区の乳牛数は7,300頭を超える。 阿寒市街


山中へ向かう林道はすべて崩れが発生、通行止めで車両は通行できず、
下流の街、布伏内から炭鉱跡まで片道24km、
日帰りは不可能、覚悟して入山する必要がある。 マウスon 雄別林道地図


尾根からは雌阿寒岳を望む。

冒頭に述べたとおり、日本中の水不足による発電過少により、
火力発電用石炭の需要が増えたのが北陽炭鉱開坑の要因だ。 雌阿寒岳


南方面には日本海を遠望する。

昭和15年からの電力不足問題は衆議院、貴族院でも討論され、
日本発送電が無ければさらに電力不足は深刻なものであったと擁護の声もあった。 日本海


電力飢餓による中小工場への打撃は、
軍需工場にも波及し、それは商工省や陸海軍省への苦情となった。
そこでようやく電力不足問題が真摯に議論されることとなった。 アプローチ


巨大な倒木が行く手を阻む。

議論の末、石炭の国内産出を急激に高めることはできず、
外国石炭の輸入に頼らざるを得ないとの結論に至る。 倒木


上流からも下流からも車両では到達できない林道が現れる。

国は財閥系炭鉱を通じてカナリア、インドなどから5万t以上の原炭を輸入、
このように政府による大々的な外国炭輸入は国内業者に心理的な動揺を与えることとなった。 北陽ヘルフナイ林道


石炭獲得で難航した日本発送電はせめて半分でも自給したいと所望し、
商工省や樺太庁に照会、北海道大学の調査を背景に、
樺太の珍内鉱区及び内路鉱区を買収するに至る。 シュンクシタカラ川


珍内鉱区は埋蔵量1億8千万t、可採炭量は9千万t、
内路鉱区は埋蔵量5千万t、可採炭量は3千万t、
どちらも発熱量は6,000カロリー以上と発電所用としては適正炭であった。 シュンクシタカラ


河川敷に遺構が残存する。

樺太鉱区と前後して北海道にも有望な鉱区があると持ち込まれたのが、
鉱区面積5千93万坪、「北陽炭鉱」であった。 北陽炭鉱


鉱区には広大な平場が残る。

北陽炭鉱は珍内鉱区よりもはるかに大規模な推定埋蔵量4億5千万t、可採炭量は2億5千万t、
発熱量は6,000カロリー以上と申し分なかった。 平場


遺構が小規模に留まる。
調査結果が良好だったため、昭和15年から北陽には、
事務所、職員住宅、鉱員社宅が建てられ相当数の居住があった。 廃祉


当時、付近には雄別小学校の分教場が建設され、
北陽−古潭の道路も開通、シュンクシタカラ川沿いの軌道も計画された。
この時雄別の人たちは、「雄別よりも大きな炭鉱ができる」と噂した。 廃祉


レンガ製の遺構はボイラー跡のようだ。

北陽炭鉱は埋蔵量と炭質に被疑はなかったものの、採炭場所から港湾までのアクセスに問題があり、
実際、大正4年から3回も調査されながら搬出運搬の面で開鉱に至っていない経緯があった。 廃祉


釧路に火力発電所は無く、京阪神への輸送船がない。
どうして北陽炭鉱を買収するに至ったかはその点からも黒いうわさがあり、
採掘らしい採掘も行われずに経営は放棄されていた。 ボイラー


陶器製の壺が散乱している。

釧路管内には日本発送電管轄の発電所、送電設備が無いにも関わらず
営業所が設けられたのは、この炭鉱開発に最大要因がある。 壺



経営方法は日本発送電が直接経営せずに北海道炭業株式会社をして経営させる方式とした。
その後、樺太の二坑区は太平洋戦争で運搬する船舶が無く、
保坑命令によって閉山を迎える。 土台


終戦後は日本発送電の解体が叫ばれ、
北陽炭鉱の早急な整理が必要となり、釧路管内に他鉱区を持つ、
井華鉱業に昭和20年5月、買取を依頼した。 一升瓶


幻の湖、シュンクシタカラ湖はここ北陽炭鉱の下流4kmとなる。
林道は少し下流で大雨で流され、
さらに到達は困難となり、幻に拍車をかけることとなった。 シュンクシタカラ湖


北陽炭鉱から7km移動して、
立花沢排気立坑に向かう。
雄別炭鉱の最北鉱区となる。 立花沢


奥雄別深部斜坑に繋がる排気立坑だ。
人工的な痕跡は少なく、
坑口以外にも留意しながら歩く。 アプローチ


途中には貝の化石が多量に詰まった石がある。
恐らくここは古代に海の底だったのだ。
辛うじての廃道がある。 貝化石


大きな平場があり、周辺を隈なく調査したが、
立花沢排気立坑の痕跡は発見できなかった。
これも幻と化してしまった。 平場


さらに1km進んだ奥雄別東部排気坑口の探索だ。
森の守り神のような大木が構えている。
周辺を丁寧に歩く。 奥雄別東部排気坑口


付近には何かのカバーのような部材が残るものの、
それ以外の痕跡は発見できない。
坑口標高は320mとなる。 カバー


更に800m移動して北雄別排気坑を探索する。
驚くべきことにかつての大石沢林道は巨大なガリーで抉られている。
歩くのもやっとの廃道だ。 ガリー


北雄別排気坑も平場が残るだけで、
目立った痕跡は発見できなかった。
更に移動する。 北雄別排気坑


北陽炭鉱の5km下流、
奥雄西部斜坑の排気坑を目指す。
付近は標高620mとかなり高い。 奥雄西部斜坑


こちらは廃道が残り、
期待が高まる。
ここから標高460m付近まで下る。 奥雄西部斜坑


谷を俯瞰して隈なく探してみるが人工物は見当たらない。
立花沢排気立坑、奥雄別深部斜坑、奥雄別東部排気坑口、北雄別排気坑、奥雄西部斜坑とも未発見に終わった。
しかし雄別炭鉱のデーターベースとして記しておく。 奥雄西部斜坑


実際の北陽炭鉱は昭和18年(1943)に坑道掘削のみを行い閉鎖している。
出炭量は800t、現地に2万t以上を野積みし、
ある意味、未採掘と言っても過言ではない。 北陽炭鉱







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排気立坑群
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