イタチの救援
標高1,020m、蔵王ラインのスキー場付近から入山する。
鉱区は3か所に分かれ、
標高700mの元山付近に焼取式製錬所があったという。
カーブミラーの残る廃道を進む。
目指す標高1,200mの元山採鉱所から2条の索道の敷設が記録にある。
元山製錬所から山麓間はバス/トラックによる輸送であったという。
上山の街を見下ろす。
初期の鉱区である御釜のカルデラ湖では門型採鉱船による水中露天掘りが行われた。
間隔2.9mの2艘の船の間にバケットを巻き上げて採掘したという。
片方の船には巻上機を装備、
もう片方の船にはバラストを積んでバランスを取り、
ダイハツ製の発動機でウインチを可動、毎時25〜30tを採掘した。
遠く離れた斜面に遺構が見えてきた。
やがて鉱区は噴火に伴い大黒天付近の坑道堀りに移転した。
当初の原鉱は水分が50〜55%と多く、乾燥工程を必要とした。
幾多の砂防ダムを超えて標高を稼ぐ。
鉱石の乾燥は
「オンドル」
煙を床下に通して暖房する装置
を用いた貯鉱舎で行い、
建屋の下には煙道が12〜15本設置されていた。
製錬は
焼取釜
方式で、
釜は16基存在、三交代制の24時間稼働であった。
炊飯器の要領で鉱石を加熱、蒸気に含まれる硫黄分を冷却抽出する方法だ。
遠目に見えていた崖に残る遺構に到達した。
これは索道の基点にある鉱石積込装置のようだ。
斜面は大きくえぐれ、辛うじてコンクリート製の遺構が崩れず残る。
索道で原石を元山製錬所に降ろした後は、
トラックで鳴子駅に送り、国鉄にて連絡する。
製品の主要出荷先は本州製紙・東洋紡績・帝国人絹などとなる。
付近には9s級のレールも残存している。
製錬後の製品は温度の低下を待って搬出堆積する。
鉱滓(ズリ)は脱水後、所定の場所に破棄することとなっていた。
蔵王沢を見下ろす。
昭和32年9月には青森の大揚鉱山(株)と合併し、
社名を日東金属鉱山株式会社と改称した。
マウスon 大揚鉱山
積込設備は床下が崩れ、辛うじて留まっている。
昭和37年12月24日、坑内発破が起因の火災が発生、
坑内には亜硫酸ガスが発生、消火活動に支障をきたしていた。
発火地点は24m坑から地下12mの地点、立坑から枝状の各坑に燃え移り、
粘土による坑口の密閉等が行われたが、手の施しようがなかった。
2,500本のダイナマイトを保管する火薬取扱所は発火地点上方の36m坑にあり、
その引火も懸念、全山に避難命令が出た。
出火前日は奇しくも合理化問題での大会が開催、
入坑がなかったので死傷者は出なかったが、
各坑からの注水を続けたものの翌年になっても鎮火せず、
昭和38年3月いっぱいでの閉山通告と相成る。
閉山の10年前、昭和28年2月には索道のケーブル切断事故が発生し、
食料の補給が断絶、従業員家族1,500名の生活に支障をきたす事件があった。
要請を受けた神町米駐留軍はウイゼル(いたち)という名の水陸両用車を派遣、
小麦粉、バターなど食料品を積雪1.5mの中、山麓から海抜700mまで登坂、事なきを得た。
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