深部切羽と坑内通気法の追行


新幌内炭鉱南坑に位置する第二風井の扇風機風洞である。
かつての通気坑は風井(ふうせい)と呼ばれたようだ。
坑内図のようにすぐ西部の密閉された第二風井と接続している。 マウスon 坑内図



大きく巻いて一本の谷に下る。
3月下旬、残雪の緩むこの時期は雪崩に注意だ。
ビーコンも装備し獣の足跡を追う。 谷


北斜面と南斜面では雪質が変化する。
北面は固く締まっているが、南面は緩んで水分を帯びている。
歩くだけで方向が分かるほどだ。 北斜面


これは雪の南斜面に発生した雪崩の亀裂だ。
雪崩には点発生、面発生、表層、全層などがある。
ここは地面が露出し全体に崩れているので面発生の全層雪崩の予兆だ。 雪崩


延々と登ると谷の奥の僅かな平場に何か建屋が見える。
事前にGPSにマークした場所とも一致する。
施設が現存していたようだ。 遺構


文字通りルートを迷うスノーブリッジだ。
右岸から巻くと登れないかも知れず、左岸は間違いなく沢の上だ。
エゾシカを信じて足跡に倣い、無事通過した。 スノーブリッジ


風洞施設跡は大きく分けて3棟に分かれる。
左はガス抽出などに使用した小屋、中央が円柱状の風洞施設、
奥が恐らく変電や制御を司る事務所的設備だ。 遺構


手前はかなり古い様相で、
坑内の純メタンを誘導し 有効利用 するための施設のようだ。
新幌内炭鉱時代には坑内ガスを利用し2,000kWの発電に成功した。 ガス抽出


内部は土砂が流入しレールを利用した鋼材だけが残る。
誘導された坑内ガスは一大ガスタンクに蓄積、
これを燃料とするガス発電所が昭和10年に起工し発電を開始した。 内部


中央の風洞施設。
アールを描き地面から90度でエルボのように曲がっている。
苔むして残雪が被っている。 風洞


建屋側には扇風機のケーシングが残存する。
ここにシロッコ型かターボ型の羽根が入り、
中央の軸を中心に外部のモーターで回転させていたのだ。 扇風機


ターボ型/シロッコ型はレンジフードの様な機構で機器の配置に自由度が効く。
プロペラは屋外と面している壁に取りつける必要があるが、
シロッコの場合はダクトを介しての吸引となるため屋外の風の影響を受けることがない。 シロッコファン


ただしシロッコファンはプロペラと異なり逆回転させても風向きは変わらないので、
入気させたいときには、このような外部ダクトを開放して入力方向を切り替える必要がある。
もしもの事故の際への配慮である。 外部ダクト


最上流は変電や電動機の制御の建屋だ。
風洞の内径は3m、深度は219m、昭和27年12月完成の施設だ。
支保には重圧個所用の 『リングアーチ』連結材を埋め込んだ迫石ブロックが連続したもの が使用された。 制御室


建屋内部は小部屋はあるもののいかにも電動機の設置施設のようだ。
変電設備から据え付けた電動機を運転し、
外部風洞のファンを駆動していたのだ。 廃祉


『高圧』『高圧分岐函』『電源開閉器』機器構成図などの銘板がある。
機器構成の銘板は劣化してよく読めない。
はしご「」とくち「高」が混合されている。 高圧銘板


手前のRC製架台が電動機(モーター)の設置個所であろう。
変電や電気機器は悉く撤去されている。
人が常駐していた痕跡も少ない。 鉱山遺構


その架台の一端には「11.10 野原作」の掘り込みがある。
これは後の落書きではなく、当時の工事担当者が記念に彫り込んだものだろう。
年号が読み取れないのが悔やまれる。 産業遺産


内部の壁には『登録番号10番 ☆ 火の用心』の木札が残る。
☆マークは紛れもなく『北海道炭砿汽船』、
つまり北炭のマークだ。 火の用心


当時、坑道が深くなるにつれその切羽温度は41〜46℃にも上昇し、
作業員の脱水症状数が夏場で44人から95名に増加、
冬場でも16名前後の発生を見ていた。 棚


深部移行、そして機械化に伴う採炭切羽内の温度問題は、
坑道骨格簡素化や通気改善のみでは限界があり、
昭和49年7月、主要切羽に最初の冷房設備を導入し採炭切羽の入気冷却を始めた。 アンカー

これは坑道冷房方式(Basic cooling system略B.C.方 式)と呼ばれ、
立地条件的に多量の水を確保することが困難なことから、
冷却器や冷媒、コンプレッサーを用いた冷蔵装置を坑道脇に設置し、
それは完全循環方式で小型大容量のものを選択して、最も基本的な冷房方式 とした。 窓


ところが深部の払(採掘場)跡からの熱気流のため、
切羽(採掘の最先端)上部の温度環境が著しく悪化し、昭和55年から排気側の冷房を実施、
更に昭和60年から切羽内冷房も施行した。 天井


切羽内冷却器については圧気と冷水を使用する形式となり、
これは面内冷房方式(Sectional cooling system略S.C.方 式)と呼ばれる、
熱交換器と噴流部を備えたスポットクーラー方式であった。 高圧分岐函


更に深部採炭が進むと、坑外に大容量の冷凍機を設置し、
作られた冷水を坑外から1,055mの深度まで立坑配管を通して送水、
坑底に設置した熱交換器を循環後、再度坑外の冷凍機に戻る閉回路の大型装置が導入された。 個室


これは中央集中冷房方式(Central cooling system略C.C.方 式)と呼ばれ、
昭和61年に実施に踏切り7月末に工事が完成、
日本で最初に試みられる方式であった。 排気立坑


冷却機構はフレオン22という冷媒を使用し、
循環する冷却水を急冷し、その冷気をファンで送風することで、
8月〜10月の脱水症者数は7名と84%減の成果があった。 内部


暑さとの攻防、そしてガスとの戦いが続く中、坑内ガスによる発電装置も日本の先駆けと言われ、
自鉱の動力や灯用に使用され、なお余力があった。
しかしその施設は太平洋戦争下において、南方開発の重要施設に流用が決まり、
国家総動員法により昭和16年12月徴用、撤去と相成ってしまった。 廃墟






戻る

排気立坑跡
排気立坑跡

トップページへ