通気の変遷
赤平市は大正11年(1922)に歌志内村から分村し、
昭和18年(1943)に町政施行、
昭和29年(1954)に道内18番目の市になった。
市街地から標高200m付近の西排気立坑(三坑)を目指す。
排気立坑は運搬や選炭施設とかけ離れて存在するため、
アプローチに苦労する。
さんざん登坂すると予測地点に建物がある。
昭和26年9月完成の西排気立坑に到達だ。
第一立坑の南側に位置する。
扇風機室の建屋は酷く劣化している。
残雪の中、足元に注意して進む。
通常、主要扇風機は排気坑口に設置する。
軸流式扇風機を設置した台座が残る。
軸流式扇風機はシロッコファンと呼ばれるものが一般的だ。
内部に機器はほとんどない。
プロペラ型は排気坑口断面に設置、つまり排気専用風洞となり人員などの入坑はできなくなる。
ターボ型/シロッコ型はレンジフード同様にダクトを使用するため、
機器の設置の自由度があり、坑口を占有することもない。
炭鉱・鉱山での通気は吸出し式が圧倒的に多い。
坑内を負圧(マイナス)にすることで、もしもの爆発事故の際、
外部への損傷を減少させるためだ。
シロッコファンの機器配置の模式図だ。
台座の間にシロッコファンの軸が固定され、
これを電動機(モーター)で駆動する。
マウスon シロッコファン
建物内の酸素濃度は21.8%と問題はない。
密閉された施設内は酸欠の恐れもある。
CO2、ガス濃度ともに十分注意しての探索となる。
建物の北部には排気坑口があるが、
付近に塞がれた立坑などは確認できなかった。
正方形の断面は珍しい。
建屋の天井は大きく抜けており、
エヴァーゼ
等が存在したのかもしれない。
長年の風雨や積雪で酷く荒れている。
第一立坑完成の一年前、昭和37年8月通気の大改革が行われた。
-350Lから-550Lの深部開発の前段階としてだ。
延びる坑道に従って、通気経路も整備統合が必要なのだ。
これは第一立坑完成後の階層構造を模式化したものだ。
従来は二坑を除く3つの階層構造(一坑区域/三坑区域/深部区域)は
三台の扇風機によって連合運転が行われていた。
これは通気回路変更前の坑内断面図だ。
二坑を除く部分は互いに連絡しており、
第一立坑からの大量出炭に伴い、入気のさらなる確保が必要となった。
将来の深部開発に対応するための根本的な通気系統の確立を図るための改善が行われ、
それは中央に位置する南総排気立坑に出力940HPのプロペラファン2台を
並列につけて排気とし、外郭の4斜坑と3立坑をすべて入気に変更する方法だった。
このため排気立坑への貫通口は-200L及び-345Lの2か所であったが
-250L及び-370Lへも貫通を行い、各階層の通気区画を明確にした。
その結果、風量は27%増となった。
再び移動して別の沢沿いを登る。
付近に残るであろう浄水施設の探索だ。
炭鉱街に浄水施設は付き物だ。
道は荒れはじめ、道なき廃道となる。
赤平市の人口のピークは昭和34年(1959)、
58,713名となる。
斜面には150A程度の太い配管が埋没している。
昭和34年と言えば、年産160万tを目指し、
赤平炭鉱が加速的に坑道を整備した時期と重なる。
更に上流域にはスレートの小屋が崩れて残る。
恐らく資料の浄水施設、
昭和30年代の遺構だ。
スレートの小屋はやはり水槽を囲ってあり、
配水池かそのポンプの施設のようだ。
既に壁も倒れ、無残な状態だ。
移動して北排気立坑方面へ向かう。
沢沿いには炭住か廃屋が並ぶ。
ここにも街があったのだ。
立派なブロック製の蔵が残る。
昭和39年8月より深部開発として
北部付近から第一立坑へ向かう六斜坑の開発を行った。
これは北部の未開発区域からの出炭を目的としたもので、
豊富な炭量賦存地帯の新開発であり、
今後の発展に大きく期待が寄せられた。
しかし、通気容量が不足することは明白で、
昭和40年、新たに長田の沢上流に
仕上がり内径5.5mの北排気立坑の開墾が進められた。
北排気立坑付近に残るRC製の遺構だ。
これは水利に関する設備のようだ。
排気立坑を交わすための転流坑の可能性もある。
-250L-300L-350L-430Lの各水平坑道と接続し、
第一立坑からの入気は新造の六斜坑を吹きおろし、
各水平坑道を通って北排気立坑に抜けることとなる。
電機機器などの台座がある。
新造の六斜坑は排気立坑一本を占有することとなり、
通気的に安定した状態となった。
北排気立坑は昭和40年4月から基礎工事に着工し、
地理的に谷間の沢沿いのため、
雪解けが遅れかつ用地買収に手間取ることとなる。
北排気立坑に到達だ。
山の斜面をカットしての整地作業、道路造成工事などにも時間がかかり、
9月に掘削を開始し、諸機械の据え付け工事を行い41年8月上旬に完成をみた。
扇風機は二段式軸流扇風機でモーターは940馬力、
坑口(+95m)から-350L水平中央坑道に貫通し
主に第一立坑の上下に接続する一坑、二坑そして六斜坑の排気を司った。
その後、昭和62年に再び大きな通気変更を行った。
以前は第一立坑、斜坑、上歌立坑を入気とし
北の端の北排気立坑と鉱区中央の中央排気立坑との2本で
吸出し通気を行っていた
通気効率の悪さと採掘区域の集約などにより中央排気立坑を廃止した。
上歌立坑を排気立坑に変更し、第一立坑と斜坑から入気を取り入れ
南北で排気するという完全対偶式通気系統となった。
通気の状況は専門の部署が常時計測し、
増える通気抵抗に対しての興亡は、
炭鉱の後期まで終わることなく続いたのだ。
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