6年間の戦略拠点


むかわ町穂別の長和(おさわ)は、
JR石勝線と道東自動車道が通過するが、
付近に大きな街はない。 長和


分岐道を進むと廃神社がある。
奥穂別八幡宮と言われる神社で、
角川地名大辞典によると明治38年創設とある。 廃神社



JR石勝線に沿って少し進むと
オサワ信号場がある。
付近に人家はない。 オサワ信号場


信号場は駅ではなく、単線区間の列車の行き違いや退避を行う場所だ。
長距離区間をここで二分し、
線路容量を向上することができる。 信号場


炭鉱付近に近づくと、
崩れて屋根だけが残る廃屋がある。
集落の跡のようだ。 遺構


集落中心部には基礎だけが残る比較的大きな施設跡がある。
ここは新登川小学校跡だ。
昭和21年に開校し、昭和46年に廃校となっている。 新登川小学校


この場所に移転新築したのが昭和38年。
火災の後の移転だが、炭鉱の閉山は昭和29年と
閉山後も17年間、小学校は運用されていたこととなる。 小学校跡



炭鉱閉山後も近郊の農家の子供たちが通学していたようだが、
農家の離農もその後相次ぎ、
昭和45年に集落の集団移転と相成る。 廃校


炭鉱跡地に進むと大きなオブジェの様な遺構がある。
鉄筋コンクリート製のアバットの様な施設で、
恐らく積込施設だと思われる。 積込設備


新登川炭鉱が開坑した昭和22年は、
GHQの指示により経済安定本部の基本計画に基づいて、
配炭公団による石炭一手買取、増産が叫ばれた時代だ。 廃坑


政府の投資は本来、炭鉱設備に行われるはずであったが、
労働者の充足・安定という観点から、
炭鉱住宅の建設に充てられることとなった。 炭鉱跡


そのため昭和21年下半期の炭住数は2,000戸であったものが、
翌年には30,000戸の新築と異常な増築となった。
これら資金には政府出資の『復興金融金庫』が充てられた。 廃墟


付近には碍子も残る。
当時、労働力については大幅に増加したにもかかわらず、主力炭鉱の機械化は進まず、
叫ばれる石炭増産に対し、政府は『石炭非常時増産対策要綱』の閣議決定に至る。 碍子


水槽の様な廃祉が残存する。
閉山時の昭和29年頃は、朝鮮動乱後の炭価高騰により、
各炭鉱が合理化を先延ばしにしてしまった時期だ。 廃祉


インフレを呼ぶ高炭価時代と戦後の不況が重なり、
安価な石油やアメリカ炭の輸入による外貨危機に直面したのが、
本坑閉山時期と重なる。 浮選


水道設備が未だ残る。
昭和9年を基準とした昭和25年の石炭価格はその約3.4倍と、
石炭を原燃料としている鉄鋼・セメント・ソーダ類の国際競争力低下を招いていた。 水道



風呂の様な遺構もある。
高単価の主原因としては、 「労働生産性」 (売上−原価=付加価値÷従業員数)労働者数に無駄がないかの指数 が低く生産高の半分が労務費であること、
深部移行による通気等の設備費向上、借入金依存体制などとなる。 風呂


これは石炭を利用したボイラー跡かもしれない。
生活の痕跡、
石炭は炭鉱町に支給されたという。 遺構



穂別川沿いにも選炭施設らしき遺構が広がる。
高炭価問題に対して政府は外貨危機に結び付く石油の消費を抑えつつ、
『炭主油従』の方向で合理化を進める予定であった。 選鉱所


ところが神武景気(昭和30〜32年)は石炭増産を招き、
炭鉱数の大幅増加と共に生産効率は伸び悩み、合理化は進まず、
結果的にその後のなべ底不況により石炭業界は『構造不況産業』となってしまう。 選炭施設


7年間という短期間の稼働に従い、
炭鉱施設は大規模な遺構はなく、
そのほとんどは炭鉱集落の成れの果てであった。 遺構


炭鉱跡から3.5q程度でご覧の遺構がある。
屋根や窓の形状が近代的な様相で、
炭鉱時代の施設とも異なる風貌だ。 遺構


これは冒頭で解説した電気事業者による保守作業拠点『散宿所(サンシュクジョ)』だ。
電気事業が開業した明治20年当時はまだ、電気を管轄する役所も決まっておらず、
各地域ごとに独自に監督していた。 J-POWER



しかし電気の普及とともに、統一した規格での管轄と規制が要求され、
電気事業取締規則により、
送電網のメンテナンス拠点として『散宿所』の設置が各地方に義務付けられた。 基礎


建屋に残る電源開発(株)の旧意匠(ロゴマーク)。
ここは十勝−札幌間の送電ルート、十勝幹線を保守する基点だ。
昭和31年に設置され昭和37年まで6年間運用されたという。 意匠


煉瓦製の煙突も残る。
『散宿所』は保守事務所から、場所によっては送電以外の電気設備の点検や、
故障修理のサービス出張所、そして販売拠点へと時代とともに移行していったようだ。 煙突


公布された決め事により定義、設置された『散宿所』。
今も現役の生命線、十勝幹線は残るとも、
かつてそれを支えた修繕出張所は今は廃墟と化してしまった。 配管







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炭鉱街
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