集水井坑が語る山の滑動

常盤台地区に残る高さ170mの立坑櫓。
北側の上風坑は坑内の入気と人員の昇降を司り、
南側の下風坑が坑内への排気と運炭を行う。 立坑


美唄川を渡る廃橋がスタート地点となる。
ここからはほぼ廃道となりGPSやコンパスを用いた、
ルートファインディングが必須となる。 廃橋


すぐに道は獣道となる。
ここから標高で約150m登攀し、その距離は1.2q。
目標物はないので、あくまで過去の地形図位置を目指して登る。 廃道


付近には砂防ダムが堵列する。
一般的な山地ではおおむね規則的に尾根と谷があり、
斜面標高は稜線から一方的に低下している。 砂防ダム


しばらく登ると治山され植林された一角に出る。
ここ美唄山中は地形図で見ると、
尾根と谷の分布が不規則で斜面は一方的に低下しないことが多い。 植林


植林地帯はかつての炭住街のようだ。
すぐに旧式の洗濯機や日常品の遺構がある。
ここは集落跡、炭鉱施設の遺構とは一味違う。 変圧器


建物の土台や浄化槽のような廃祉が残存する。
付近の炭鉱町には当初、
日用品から食料品までを兼ね備えた商店が進出したという。 浄化槽



山中には遺構が散発する。
やがて人口の増加とともに商店は専門店と進化し、
鮮魚店、菓子店、呉服屋、写真館と多角的になる。 遺跡


これは物品の貯蔵用地下倉庫への入り口のようだ。
料理店に関しては、美唄市街よりも我路の方が盛況となり、
恵比寿亭、昇月楼、千代の屋などと14軒程度が軒を連ねたという。 倉庫


建物の基礎が残る。
旭台と常盤台には三菱美唄鉱業所病院の分院も存在したそうだ。
昭和 32年には美唄市の人口が9万人を超えその内6万人が炭鉱関連者だったという。 基礎


ここにかつて建物が林立していたとは想像できない山中だ。
個人の商店が進出するまでは、
会社直営の配給所や分配所といわれる購買施設があった。 山中

一際明確な遺構、これは浄化槽だ。
苔むしたRCが年代を感じさせる。
ここにも暮らしがあったのだ。 マウスon 浄化槽


斜面に沿って下り始めると、
炭鉱時代の施設とは似て非なる色合いの設備がある。
これはどうやら 集水井坑のようだ 。 集水井坑


この集水井(しゅうすいせい)は巨大な井戸のようなもので、
地下深くの周辺地下水をまとめて排出し、
地すべりを抑制する効果がある。 井戸


なぜか現在の地形図には記載されていないが、
昭和40年代の地形図には2か所の集水井がプロットされている。
これだけ近接(1:50000地形図で1cm=500m)しているのはそれだけ地下水の集積が多いということだ。 集水井


これは「国立研究開発法人防災科学技術研究所 地すべり地形分布図データベース」だ。
オレンジ色丸が今回探索の清水台となる。
茶色い部分が不安定土壌である。 地すべり


地すべり斜面では周囲の山地より水持ちが良く保持しやすい。
田んぼとして利用されていたり、
最近では休耕田や荒れ地記号で表わされたりしているところが多い。 遺構


ここ美唄の場合は、斜面は周囲より緩く、
山の中でありながら集落や畑地となっていることもある。
現在でも周辺にはオートレベルを設置するような精密三脚が置いてありメンテナンスが行われているようだ。 地下倉庫


森の中に大きな浴場が残る。
これも生活必需品、当然あるべき姿だ。
しかしなかなかの規模だ。 浴場


地すべりには地下水が深く関わっており、
特に積雪がある地域では
雪解けの時期に巨大な変動が起こることがある。 銭湯


さらに下るとタイル張りの白い遺構がある。
またもや浴場かと思ったが、
これはどうやら違うようだ。 タイル


『鮮魚』と書かれた生け簀だ。
これは鮮魚店の廃祉だ。
明治期の開坑当時、魚類は冬季に馬橇で石狩川から運搬するに留まった。 鮮魚


夏場は冷蔵できず、乾物や塩蔵品しか入手困難であった。
ところが大正期に入ると魚菜市場が開設され、
やがて鮮魚の入荷を見るようになった。 マウスon 鮮魚


街灯が未だに残る。
融雪や降雨による地下水位の上昇、脆弱化する土壌、
これが美唄山中の地すべりの現状だった。 街灯







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