ガラスの石鹸
サロマ湖は砂嘴でオホーツク海と隔てられている汽水湖だ。
琵琶湖・霞ヶ浦に続いて日本で3番目に大きい。
今回は雪解期で水面は濁っている。
仁倉牧場付近から林道を進む。
この地方の商業の始まりは網走常呂方面から、
海岸沿いに日用品の物品交流が始まったとされる。
やがて林道は廃道となり徒歩で進む。
昭和14年(1939)に鉱脈が発見され、橋を架け道を開き、
昭和18年(1943)5月、初鉱石が日鉄輪西製鉄所の溶鉱炉に投入された。
ズリ捨て場のような一角もある。
昭和18年といえば太平洋戦争も激化した時代で、
鉄の増産に拍車がかかり、労務者も多数募集された。
1㎞ほど登るとそこには鉱山時代の忘れ形見、鉱山神社の祠がある。
社宅も付近に5棟建設され、寮などに15世帯。
独身者20数名が従事した
前2本柱の向拝(こうはい)も残る重厚な祠。
当時は戦時下のガソリン不足のため、
木炭トラック数台による佐呂間までの鉱石運搬が行われた。
エゾシカの頭骨が転がる旧鉱山道路。
軍事重要産業として採算無視で遂行された鉱山事業は、
昭和20年8月終戦と共に休山となった。
仁倉川支流の左岸には以前も紹介した
試掘坑
が残る。
休山後、従業員は他鉱へ転属となったが、
鉱区の管理は継続された。
標識の残る廃道を進む。
戦後日本経済復興の後押しもあり、昭和23年(1948)には再び鉄の需要が高まり、
翌年から本格的な採鉱が行われた。
蛇ノ沢鉱区を超えるといよいよ道は消滅する。
鉱石は佐呂間駅から室蘭へ鉱送、富士製鉄㏍との間で、
含有成分43%以上をもって契約された。
昭和26年(1951)には月産1,000tに達し、
2年後に湧網線全線開通、仁倉駅が開設されると、
鉱石生産と鉄道開通促進が相乗効果となった。
いよいよ鉱山跡の雰囲気が色濃くなる。
昭和28年(1953)~32年(1957)頃が鉱山の最盛期で月産2,000tにも達し、
戸数25戸、従業員数60名、通学児童45名に及んだ。
しかし労働条件は恵まれず、
労働組合もなく住宅環境も悪く、
苦しい生活を余儀なくされていたという。
鉱床中央部には池がある。
鉱質の低下と輸入鉱石の割合増加により、
日本経済躍進の陰で閉山に向かう。
付近には平場があり石垣のように鉱石が散らばる。
昭和38年10月には労働者全員の離鉱が終わり、
残務整理の後、昭和39年7月、無人の原野に戻る。
ここで鋼製の遺構が現れる。
現況の林道は、佐呂間営林署により不要なズリ石を再利用して敷設されたもので、
社宅や宅地もすべて売却されたという。
運搬坑付近には50A程度の太さの鋼管が埋没している。
当時の仁倉集落の人口、戸数をまとめると、
入植の大正元年に(68戸/235名)から発足し、
鉱山開坑後の昭和22年は(128戸/839名)となる。
仁倉駅開設後の昭和29年に(168戸/1,055名)とピークを迎えた後、
仁倉鉱山閉山後の昭和39年には(141戸/753名)と激減する。
その後、昭和55年には(90戸/352名)と離農が進む。
足元には水槽のようなRC製の遺構がある。
深さは600㎜程度ある。
選鉱や洗浄の施設かもしれない。
鉱山ではかつて近隣の農家の方も働いていたという。
1年間程度だが鉱山街に小さな店があり、
子供たちはおやつを買って過ごしたらしい。
更に登り大栄坑、二号坑、三号坑付近を目指す。
集落の運動会では鉱山街と集落が戦い、
鉱山部の応援はすさまじく、負けた子供は叱られていたという。
本坑では主に鉄とマンガンが採掘された。
マンガンは漢字で『満俺』と記載する。
この『満俺』の語源は何なのか?
大栄坑付近には赤い鉱石と人工物がある。
1,800年代のカラクリ師 大野弁吉著『一東視窮録』という薬学書には、
『酸素瓦斯(ガス)を得る法。黒酸化満俺を火に耐る~』との掲載がある。
広大な鉱山跡地がある。
遡る天保8年(1937)宇田川熔菴著『舎密開宗』では、
満瓦紐母(マンガニゥム)との記載がある。
三号坑付近の紛れもない人工物、石垣である。
中国語の元素記号はすべて一文字の漢字で表され、
金属元素は「金」へん、常温気体元素には「气」(きがまえ)が使用され
一目瞭然だ。
二号坑付近にも土台のようなコンクリート片がある。
中国語のマンガンは『金』へんに『孟』となり、
これは兄弟姉妹のうちで最年長の者の意だが、
これも『満俺』の語源とは異なりそうだ。
二号坑鉱床付近。
昭和3年(1928)の商工省鉱山局 編による満俺鉱ニ関スル調査においても、
その由来については記されていない。
これはあくまで推論となるが、
ドイツで呼ばれた『ブラウンシュタイン』は男性名詞であり、
金属元素として中性名詞に変換した記録としての『俺』ではないかと考察する。
大栄坑付近には目立った遺構は存在しなかった。
鉱山が盛況な頃はやぐらを組んでの祭りがあり、
かつての賑やかな催しの実録が不思議な寂しさを呼ぶ。