ダム候補地の変遷
函館トラピスチヌ修道院の北、松倉川中流域だ。
付近には
亀田鉱山など銅や硫黄の鉱山が点在している。
寅沢川の分岐に向かって林道を走る。
寅沢川は上流域の雰囲気で、
標高は210m程度まで遡ってきた。
ここから渡渉し、山中に入る。
いきなり道はなく、笹薮の斜面をよじ登る。
昭和25年以前の遺構、
ルートもほぼ自然に還っている。
辛うじてのルートもなく、
方位に従い、高低差の少ない場所を進む。
藪漕ぎの距離は300m程度、足元の遺構を探しつつ黙々と進む。
少し進むと目の前には兀山が現れる。
そこだけ植生の無い一画だ。
もしやズリ山の成れの果てではないか。
斜面には熔融した溶岩のような石がある。
これは人工的に焼かれた鉱石の脈石部分だ。
焼取式製錬の不要部分だ。
ズリ山と思われる小山をトラバースする。
かつて焼取釜が12基存在、硫黄品位は35〜40%とされ、
昭和9年当時で4,718t/年の産出があったという。
奥にはさらに明確な白いズリ山の存在だ。
硫黄鉱床は成因から大きく4種に分類される。
沈殿・
「鉱染」熱水から沈殿した鉱物が岩石中の細かい割れ目に散在していること
・「昇華」ドライアイスのように気体から固体(逆もあり)に直接変化すること
・熔流などがあり、それらが重複することもある。
ズリ山の頂上へ向かい登る。
沈殿鉱床は登別・ニセコ地方に存在し、
湯沼や火口湖の底部に沈殿堆積したものだ。
ズリ山には植生が戻らない。
火山性ガスに含まれる硫化水素、二酸化硫黄が冷えて固まり硫黄が生成する。
これらにはガスには毒性がある。
いよいよ明確な遺構、耐火煉瓦だ。
鉱染鉱床は地下から噴出する硫化ガスから生成したもので、
白老鉱床、そして松倉鉱山が該当する。
再び激しい藪漕ぎを経て、製錬所を目指す。
昇華鉱床は火山の噴出の際に、亜硫酸ガスなどから直接硫黄結晶が析出したもの。
恵山・阿寒・跡佐登鉱山などが該当する。
付近には赤い沼が存在する。
本坑は露天掘りではなく坑道掘りであったため、
これは坑道の成れの果てかもしれない。
更に奥部にも別のズリ山が続く。
熔流鉱床は世界的にも珍しく、純粋な硫黄が噴火口より溢流したもので、
知床では昭和11年(1936)2月に品位90%の硫黄が1.2qに渡り流出した。
ズリ山を越えると広範囲に平場が広がる。
鉱床範囲は900m、幅60m、厚さ1〜8mとされ、
硫黄鉱山としてはかなり大規模な部類に入る。
藪の中にはRC製の遺構だ。
これは鉱石を焼取釜に投入する前工程の乾燥施設のようだ。
余熱を利用して原鉱の水分除去を行うのだ。
正方形の水槽もある。
深さは1.5m程度で、
カエルの卵が多数ある。
写真では判りにくいが石垣が残存している。
昭和坑・十年坑・大正坑・中切坑・大切坑などの、
坑道が存在したようだが、はたして付近も坑口跡かもしれない。
またもや山脈のようにズリ山が続く。
とりあえず頂上から俯瞰すれば、
状況が見えるかもしれない。
ズリ山は水分を含んだ泥状部分に細かい砂利が浮いている。
頂上付近は急角度で、
手も使わないと登れない。
ズリ山頂上から見ると小さな沢が遠方に見える。
沢は坑口からの流出の可能性もあり、
まずはそちらを目指す。
ズリ山とズリ山の間の掘割部分にも坑口が無いか確認を怠らない。
松倉鉱山と三盛鉱山は同一鉱床を南北から採掘していた。
二坑で昭和10年〜19年に5,000t/年の生産があった。
平場を暫く進むと湯気を上げる小川がある。
白濁した湯の華が流れている。
どうやら温泉のようだ。
遡ると地下から水が湧き出ている場所がある。
ゴボゴボと音をたて、
白い鉱泉が噴出している。
温泉の湧きだすポイントは湯の華で満たされている。
若干の硫化水素臭もあるが、
ガスの噴出は無い。
湯の温度を計測すると9.8℃、冷泉だ。
気温が低いため一部湯気が上がっているが、
これは冷たい。
別の沢に遭遇した。
焼取釜は炉1基に通常10〜12の鋳鉄製釜を二列に並べる。
煉瓦製の炉で鉱石を投入した釜を下部から薪で燃焼させる。
鉄釜からの蒸気を収集し気化した硫黄分を、
沈殿管で冷却液化、炊飯器のような原理だ。
液化しない残余分は奥の昇華室で再度抽出する。
暫く下ると
「ヒューム管」遠心力で製作する鉄筋コンクリート製土管
の廃祉が苔に覆われている。
焼取鉄釜の寿命は10〜12か月、沈殿管は約2年とされていた。
焼取釜の硫黄回収率は75〜80%、決して高くはない。
沢沿いもすべてズリ山だ。
焼取釜の燃料は薪および石炭である。
硫黄1t当たり薪0.36
「棚」空間の体積単位。3尺×6尺×6尺=100立方尺(3立方メートル)
、石炭0.12〜0.17tを要した。
耐熱性のブロックのようなものが散発してきた。
現在の標高は316m付近。
恐らく目的地の製錬所付近だ。
夥しい量の煉瓦製ブロックが残る。
焼取釜の昇華室を囲うブロックだ。
12基分となるとやはり相当量だ。
大量の耐熱材が朽ち果てている。
12基の焼取釜の沈殿管部分を周期的にメンテナンス交換するために、
保管された予備部材が行き場を失っている。
最盛期の周辺の煙害は相当だったと思う。
ここは位置的には函館市の上流域約14q。
意外と街から近いのである。
奥の斜面に坑口らしき跡がある。
函館市の水道は明治22年(1889)以来、
亀田川の水源1本に依存していた。
鉱水の流れ出る、崩れた支保工と坑口だ。
昭和14年(1939)には合併や市政の変更、大火が発生し
当時の笹川ダム(57万6,000t)の貯水量では給水不足が発生していた。
すぐ上流には別の埋没寸前の坑口がある。
昭和17年には函館市の給水量が浄水能力を上回り、
さらに昭和24年には給水不足による水圧低下が発生した。
他の斜面にも埋没した坑口のような部分がある。
衛生/防災上も問題となった函館市は新たな水源を求め、
松倉川に浄水場の建設を計画したのであった。
探索のヒントとなる埋没した坑口から滲む水流だ。
当時の松倉川には硫黄鉱山の水源汚染が発生しており、
処理施設の建設に膨大なコストが算出された。
焼取釜の遺構が残る。
函館市は建設費用の問題で松倉川からの取水を断念。
変更されたダム候補地は亀田川と相成った。
急斜面のズリ山から三森山を望む。
昭和35年(1960)9月21日、亀田川本流に60万tの貯水量を誇る中野ダムが完成した。
下流の笹流ダムとの併用で函館市の水瓶が機能することとなった。
戻る