飛花落葉、炭鉱特需の夢の跡
人口はおよそ6,700人の羽幌町はかつての炭鉱町。
日本海に沈む夕日が非常に美しい。
サンセットビーチなる名所もある。
海岸線から上羽幌地区に向かう。
上羽幌地区への入植は、明治29年(1896)から始まり、
明治の末期には戸数60戸となった。
道々747号 上羽幌羽幌停車場線沿いに残る炭住の廃墟だ。
開拓当時は帝室林野管理局の御料地を借り受けて、
約400町歩の範囲で開墾が行われた。
炭鉱住宅の廃祉が並ぶ。
上羽幌地区の入植は、他地域のように一郡一村からの集団ではなく、
縁故者同士が東北や山陰、関西の諸県から集まった。
炭住街を探索する。
入植の明治29年といえば日清戦争終局間もない時期で、
中継街に家族を残し、単身開拓に入ることが多かったようだ。
『2』という銘板の残る建屋。
粗末な掘立小屋を建ててから中継街まで家族を迎えに行き、
その開墾の苦労は相当なものであったであろう。
付近の原野に似つかわしくないポールが立っている。
これは電子基準点と呼ばれる地上2万qのGPS衛星からの電波信号を傍受し、
つくばの国土地理院に転送、基準点として地殻変動の計測などに利用されている。
(マウスon 銘板)
ここから西に向かい連斜坑口を探索する。
明治期の採掘は、河川が凍ってから馬橇で羽幌市街に石炭を搬出していた。
採鉱人夫6〜7人で稼行、事務所も存在したがやがて閉山した。
危険庫のようなブロック積の廃祉がある。
昭和22年(1947)に羽幌坑開発が再稼働し、
8月には上羽幌に二坑区域を設定した。
事務所か炭住の煙突が残る。
昭和25年(1950)の朝鮮動乱の勃発は、
戦後における最大の石炭ブームとなった。
辛うじての廃道を進む。
鉱員社宅の建設ラッシュは非常に激しく、
付近の所有農地は大規模に買い取り、数年で炭鉱住宅街と化した。
森の中を暫く探索すると、
窪地にRC製の一画があった。
坑口は斜面に面していることが多いがここは平地に存在する。
これは昭和44年(1969)から1億4千万円の巨費を投じて、
掘削を開始した全長1,800mの斜坑である。
翌45年7月完成予定であった。
扁額に残る『上羽幌坑 連斜坑口』の誇らしげな文字。
上羽幌坑は
羽幌本坑の開坑一年前に先行して開坑、
2年後には本坑と合併した経緯がある。
連斜坑口から南へ向かうと貯炭場の巨大な廃墟がある。
選炭施設を持たない上羽幌坑は、
ここから羽幌本坑まで2.9q間を索道で接続した。
炭鉱が運用されるまでの付近は静かな農村であったが、
この索道が運用されるとその機械音と、
自動車の往来、それらの喧騒が訪れたという。
精炭ポケットの下部付近である。
炭鉱が繁栄すると劇場ができ、
映画や芝居がこの山村でも鑑賞できることとなった。
坑口と見間違うばかりの排水溝の跡だ。
貯炭場の右手には木造の索道起点が存在し、
今より一回り大きな施設だったようだ。
精炭ポケットの上部には、
積込施設の廃祉が自然に帰りつつある。
ワイヤーや鋼材も散らばる。
更に上部に登坂すると、
沢があるものの、その流れは途中の穴に流れ込み
下流に沢は存在しない。
沢の奥は平場がある。
どうやら鉱業所事務所付近だ。
遺構が散発してきた。
タイル張りの浴場が残る。
当時の上羽幌には病院が開設され、
十数軒の商店が立ち並んだという。
苔むした浴槽。
市街地の急激な形成に合わせ、
付近の大豆を作る農家は豆腐店を開業した。
ひたすら登ると頭上に巨大廃墟がそびえる。
これはかつて二坑と呼ばれた二本斜坑坑口である。
実際の坑口は二連で、写真土砂部分に現在は埋没してその姿は見えない。
封鎖された斜坑上部にも遺構が広がる。
豆腐店以外にも各農家は、
旅館の経営や牛乳処理工場を新設し多角経営となった。
農閑期は炭鉱への就労を行い、
これは予定外の現金収入となった。
これらは開拓農家に訪れた好機であった。
終戦後の昭和20年(1945)、
付近の人口は80名足らずであったが、
昭和35年(1960)には445戸、2,110名と爆発的に増加した。
しかしながら昭和34年頃からの、
エネルギー革命による石炭業界の不振は、
石炭需要の大幅な減少を招く。
その後、隆盛を極めた羽幌炭鉱も、
昭和45年11月2日、閉山を迎える。
1億4千万円の巨費を投じた連斜坑口の完成後、わずか4か月のことである。
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