宗谷曲淵炭鉱跡  探検: 北の細道 宗谷曲淵炭鉱

宗谷曲淵炭鉱の薄幸な閉山




北海道稚内市

  稚内の鉱産は石炭・石油・天然ガスに分類されたものの、
近隣枝幸の ゴールドラッシュ のように有望な鉱脈の発見には至らない 。
しかしながら炭田がかつて『煤田』と呼ばれていた頃から、
付近の鉱産物は石油と石炭として認知されていた。

昭和31年(1961)の北海道植民状報文にも以下のように記されている。
石炭は頓別川から声問川に至る間に露出。猿払川の上流には炭層露出が30個所。
その厚きものは五、六尺(1.5〜1.8m)に及ぶ。
石油は稚内村西海岸にて試掘中、少量の湧出あり。

天北炭田は無尽蔵の炭層を抱かえながら、
その低品位炭と鉄道宗谷線(天北線)敷設以降の遅れた開発が特徴となり、
最大の炭鉱数も12か所と石狩炭田のような財閥による大規模経営は行われなかった。


今回探索したのは、その中でも中堅の宗谷曲淵炭鉱である。
天北線曲淵駅(歩鉄の達人) 北東約5.5q付近に、
昭和15年(1940)に未開発試掘権鉱区である区域が買収され、
宗谷炭鉱として開業した。

当初は天北炭の市場性が不安定だったため、
「コークス」石炭を1,000℃で空気を遮断して加熱、ガス放出後の固形部分 を製造するための 「乾留」石炭などの固体有機物を耐熱容器中で空気を遮断、 有機物を熱分解して揮発成分と不揮発成分とに分ける工程 工場として発足した。
戦後は本来の炭鉱経営となり、 「バウム選炭機」原炭と酸素の結びつき易さを利用した、 水槽中の泡による機械選別法 の導入や曲淵駅までの索道の建設が進み、
昭和33年(1958)には10万t/年の出炭能力を確保した。

その後、急傾斜の炭層ながら、
最盛期には25t/人/月の能率を上げたものの、
昭和38年(1963)には閉山を迎える。

付近では中規模ながら、石狩炭田の炭鉱遺跡と比較すれば、
その遺構は少数かも知れない。
天北原野の中央部分を探索してみよう。



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( ̄u ̄;)選炭施設





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